芦澤:建築のどういうところに感動されたんでしょうか?

難波:当時、平和記念資料館の隣には墓場がありました。墓場のすぐそばに平和資料館が建っている光景がショックでした。側の太田川に沿って、沢山の戦後スラムがありました。その光景が記憶に刷り込まれたのかもしれません。

平沼:中学の時にその体験をされて、建築を目指される訳なんですか?

難波:いいえ、建築に進むことを意識したのは大学の時です。1965年に東大の理科一類に入学しましたが、前年の1964年に東京オリンピックがあり、丹下健三の代々木国立競技場が建てられました。僕の世代で建築に携わっている人は、それを見て建築に進む気になった人が多いと思います。それと1965年8月27日にル・コルビジェが地中海で死に、それがニュースになったのです。

平沼:テレビでですか?

難波:新聞です。そのニュースを読んで、駒場の教養学部図書館に行き、ル・コルビュジエの『伽藍は白かった時』を読みました。1965年が専門学科への進路決定の年だったので、それがきっかけで建築学科を選んだのです。

芦澤:その時は、大学の丹下研究室の終わりでそこで設計されてたんですかね?

難波:丹下さんが建築学科にいる最後の年でした。当時、高山英華と丹下健三が建築学科から独立して新しく都市工学科を設立しました。丹下さんの授業は一回だけ受けました。丹下さんが好きなヴェネツィアのサンマルコ広場に関する授業で、日本には公共の広場がないという話をされたのを憶えています。

平沼:その後建築に向かわれて、院に行かれるんですけど。

難波:僕が大学4年生だった1968年に大学紛争があり、その年の1年間は学校封鎖で、ほとんど授業がありませんでした。それでも翌年の69年には、皆大学を卒業していきました。大学院は東京大学生産技術研究所にあった池辺陽の研究室に入りました。現在、黒川紀章設計の六本木新国立美術館が建っているところで、かつて二・二六事件があった場所です。

平沼:どんな学生だったですか?

難波:自分では、どんな学生だったか分かりませんが、生産技術研究所の池辺陽研究室に7年間在籍しました。池辺は丹下健三より少し若いプロフェッサー・アーキテクトで、僕が初めて尊敬するようになった建築家です。普通は修士課程2年、博士課程3年ですが、7年間もいたのは彼を尊敬したからですね。

芦澤:池辺研では設計をなされていたんですか?

難波:設計と研究の両方やりました。1960年代末は池辺研究室が一番輝いてた時代で、日本中の大学だけでなく、世界からも留学生が来ていました。ほとんどの学生が設計志望でしたが、池辺研究室出身で建築家になった人はほとんどいません。その理由は池辺の設計教育があまりにも厳しかったからです。

芦澤:そうなんですね。どんな厳しさでしょうか?

難波:修士1年では、設計の仕方は何も知りませんよね。でも池辺研究室では、いきなり住宅設計を担当させられるのです。住宅設計では、構造材や内外の仕上材を選ばなければいけませんが、そのために候補となる材料の性能、断熱性能や遮音性能や重量を調べた上で、下地と合わせて1枚の壁に合成した場合の性能とコストの比較表を作ってこいと言われるのです。そんな作業は修士1年にできるわけがない。しかし一週間後のミーティングで結果を報告しなかったら、こっぴどく怒られるのです。僕は鈍い学生でしたから、何度叱られても気にせずに作業をくり返し、徐々にできるようになりました。研究室には設計志望の優秀な人が沢山いましたが、設計がこんなに大変ではやっていけないと、みんな諦めたのです。実際の所、世間の設計の仕方は、池辺研よりもずっと簡単ですが、初めて設計する院生にはわかりません。僕も社会に出て設計事務所を始めた時、なんだ、こんなに簡単なのかとびっくりしました。

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