平沼:こんばんは。
芦澤:こんばんは。難波先生、あの顔写真というかイラストは?
難波:これは16世紀に活躍したイタリアの建築家、アンドレア・パッラーディオの肖像画に僕の顔をコラージュしたものです。彼は僕の尊敬する建築家の一人です。
平沼:誰が作ったんですか?
難波:僕の研究室出身の若い建築家が作りました。パッラーディオの研究者で建築史家の渡辺真弓さんのアイデアで、彼の肖像が僕に似ているということに彼女が気づいて提案してくれました。
平沼:ありがとうございます。では、簡単に自己紹介をおねがいします。
難波:1947年に大阪で生まれ、4歳の時に父親の故郷、山口県の柳井という町に帰り、大学に入る18歳の時に東京に移り、以来50年東京に住んでいます。
平沼:大阪はどんな印象でしたか?
難波:4歳の時の記憶はありませんが、2000年に大阪市立大学の教員になり中津のアパートに2年半住みました。正直に言って、大阪の食べ物の印象はありません。おいしと思ったのは、フクのてっちりと美々卯のうどんすきだけです。
平沼:山口ではどんな少年時代を過ごされましたか。
難波:両親の話では、友達はいなくて、3人兄弟の長男ですが、いつも一人で遊んでいたそうです。ともかく静かな子だったらしい。
平沼:インドア、アウトドアっていうのは?
難波:アウトドアでしたね。柳井は瀬戸内海に面した小さな町で、裏はすぐ山でしたから、小中学生の頃は海でも山でも遊びました。台風が来た時も、海で泳いだことを憶えています。家にいる時は地図の立体模型を作っていました。最初は自分の町から中国地方に広がり、日本から世界まで、立体的な地図模型を作っていました。
平沼:それは何か用意されたものではなくて?
難波:プロ用の地図模型セットがあり、両親が買い揃えてくれました。屋外では、昆虫やカエルや蛇などの生物が好きでした。山や川などの地形も好きでした。その点は建築と関係があるかもしれません。
平沼:そんな小中学生が、なぜ建築を始められようと思ったんですか?
難波:中学生の時に広島に遊びに行き、初めて丹下健三の平和記念資料館を見たのが、最初のきっかけです。後に村野藤吾の平和記念マリア聖堂も見ましたが、何といっても丹下さんの平和記念資料館との出会いが大きかった。
平沼:それは高校の時ですか?
難波:いえ、中学生の時です。近くの町で幾つかの建築に触れたことも記憶にあります。僕の住んでいた町の隣町は、岸信介と佐藤栄作の故郷で、立派な町庁舎や公共施設がありました。大谷幸夫が設計した新興宗教の本堂もありました。錦帯橋のある岩国市庁舎は黒川紀章の設計です。
平沼:初めて聞きました。
難波:いろいろな建築を見ましたが、決定的なのは、やはり丹下健三の平和記念資料館です。
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