坂 :次の写真は、ルワンダにあるピュンバキャンプと言いまして、コンゴから難民を受け入れるためのキャンプです。そこに行って、50軒のシェルターをモニタリングとして設置してきました。いろいろとやったのですが、一つのシェルターあたりUS50ドルなので、4,000円ぐらいの予算しか無いんです。心地が良いものを作るというよりも、森林伐採を抑制することが一つの大きな問題であったので、本当に簡単な紙フレームと国連の幕だけで作りました。また防水や、シロアリにどうやって耐えるかといった実験を繰り返して、モニタリングを行いました。そのようなことをしている時に、神戸で大地震がありました。その前の1994年から難民の問題に携わり始めていたのですが、たまたま新聞で神戸の鷹取教会という所に、ボートピープルと言われるベトナムからの難民が集まっているということを知って。神戸に行っても何をしていいか、どこに行っていいか分からない状態だったので、僕はとりあえず鷹取教会に行きました。そうしたら教会の全部が焼け落ちて、銅像だけ一つ残っているような状況でした。ミサに参加した後神父さんに、じゃあ紙で教会を立て直しましょうと言ったら、アホかって言われて。火事があった後に何を言うんだと。そのため全く信用してくれなかったのですが、諦めずに毎週日曜日に一番の新幹線に乗ってミサに参加しました。そんなことしている間にだんだんベトナムの人達と仲良くなりました。ベトナムの人達は、公園でテント生活をしていて、衛生的にも悪く非常に困っていて。当然政府が仮設住宅を作り始めたのですが、神戸は空き地がないものですから市外に建てました。しかし彼らには、この街の長田区のケミカルシューズ工場しか仕事がないんですね。だから、市外の仮設に移ると仕事を失ってしまうので、非衛生的な生活でもこの公園に住み続けたいと望んだのですが、近隣の住民が街や公園がスラム化するのがいやだと彼らを追い出しにかかったのです。じゃあもっと衛生的にも、見た目的にも綺麗に計画されたものであれば、もう少し長いことそこに住まわせてもらえるのではないかと考えて、学生と一緒に紙とビールケースで仮設住宅を作りました。ビールケースはキリンビールにお願いしてもらったのですが、僕らはそのビールケースが来る時に、中にビールも一緒に入ってくると思って期待していたのですが、全部空だったのでガッカリした思い出があるのですが(笑)。そのビールケースの中に砂袋や基礎材などを詰めて基礎にします。幕は上と下に二重に張ることによって、後で断熱をとったり、夏は編み目を上げて屋根と天井の間を換気できるようにしています。それから、そのあとやっと神父さんが信用してくれて、ボランティアを集めるのなら作ってくれていいよと言ってくれたので、自分でお金集めと学生集めをして、10m×15mの小さな教会を、学生と一緒に5週間かけて作りました。単純な長方形の中に楕円を紙管で描いたのですが、これは僕の大好きなローマのベルニーニの教会の楕円をそのまま使って、側廊と中の空間を分節化しています。この教会は2、3年しか使わない予定だったのですが、皆さんがすごく気に入ってくれて、11年ありました。11年経った時に、再開発のために教会を立て直そうという話があったのですが、ちょうどその頃台湾で地震があり、被災地からこの教会を寄付してほしいというお話があって。全部解体して台湾に持っていき、台湾のボランティアの人たちと全部建て直して、現在台湾でパーマネントな教会として使われています。

この写真の建物は、99年にトルコで大震災があった時に呼ばれて行き、作ったのですが、地元の紙管メーカーとビール会社が全部材料を無料で提供してくれました。気候的に神戸より寒いため、ゴミの紙を紙管の中に詰め、紙の断熱量が増すようにしたのですが、そのお手伝いを子供たちがしてくれて、ここでもボランティアの手で仮設住宅を作りました。

2001年、インドの西でまた大地震があり、また呼ばれて行きました。紙管も簡単に手に入りました。何故かというと、すぐそばにテキスタイルの工場があって。布を配送する時には紙管に巻くので、テキスタイルの会社は自社で紙管を作っていたので、そこから安く紙管が手に入りました。屋根は、地元の人たちが普段使っているアシの木を編んだマットを二重にして使用しています。ところが、この辺りの人達はアルコール、ビールを一切飲まないので、ビールケースがないんです。「ビールケースない!困った!」と地元の方々に言うと、地元の建築家が、じゃあコカコーラのケース使おうと言ったのですが、コカコーラのケースではコンテクストに合わないので、伝統的な土の床を作りました。この建物は、住宅に使われたり学校に使われたりしました。簡単に積めるレゴのブロックみたいな。

次の写真は、スリランカの南の村に行って作った建物です。スマトラ大地震の際起きた津波の後に、インドとスリランカとインドネシアから来て欲しいとお声がかかったのですが、全部は行けないので、その中で一番マイノリティのイスラムの漁民が来るこの村を選びました。仮設ではなくパーマネントな家を50軒作るボランティアをしたのですが、プランの平面は、各NGOがまちまちのものを作らないよう、政府が制作した典型的なものがあるのですが、唯一僕が変えたのは、台所と、シャワーやトイレのユニットを離して、屋根のかかっている半屋外、中間的な領域を作りました。スリランカはとても熱いので、木陰でご飯を食べたり、漁民の人達は網をなおしたりと作業をします。そのため、木陰のような屋外的な空間を作ろうということで、こういう中間的な領域を作りました。この白い所は、土とセメントを混ぜた、地元で手に入る簡単なブロックを積んでいます。また、皆さん津波で家具も全部失っているので、家具会社で作った家具を建物内にプラグインして、中にはめこみ、これを構造的に使用しています。そのため、家に移り住んできた時には、もう家具もそろった住宅になっています。また屋根の屋外空間は、予想通りご飯を食べたり作業をしたりと、皆さん有効に使ってくれています。この写真は、津波直後の写真です。その下の写真が50軒作った後の現在の写真です。

この写真は、2008年の中国の四川大地震の時のプロジェクトです。すぐに行って仮設住宅のプロトタイプを作ったのですが、地元の住民が外国人は仮設住宅を作るなというのです。そんな時に、運良く仮設の小学校を作ってくれないかといううお話がありまして。ご存じのように随分小学校や中学校が地震で潰れたので、その中の一つの小学校からの依頼でした。日本から来た学生に、1か月間合宿をしてもらい、地元の学生と一緒に、500平米、3教室を3棟、合計9教室の小学校を、一か月間で作り上げました。この建物は、地元で手に入る紙管と木のジョイントで作っています。震災後、学校がなくなったので、子供はいろんな場所にある学校に行くことになったのですが、地震からすぐにこの学校ができたおかげで、元の学校に戻って最初の授業を迎えることができました。

これは2009年にイタリアのラクイラであった地震の様子です。ラクイラというのは、ローマから少し北西にいったところにある町なのですが、古い街並が全部壊滅して、地震から3年以上経っているにもかかわらず、未だに閉鎖され一切人が住めない場所になっていて。政府が複雑なこともあって解体もままならないようなので、そこに行きました。この町は音楽で有名なところで、地元のオーケストラや音楽学校があるのですが、コンサートホールがひとつもなくなってしまったのです。じゃあ仮設の音楽学校を作ろう。そうしないと、音楽家がみんなこの街から出てほかの町に移動し始めてしまうからです。そういう提案を市長にしたら、自分でお金を集めて作るのであればいいと言ってくれました。この時、当時のイタリアの首相であるベルルスコーニさんが、自分の別荘がある島で開催する予定であったG8サミットの会場を、地震被害を受けて、国際コミュニティの支援を得るために急遽ラクイラに変更しました。その時に日本大使館から連絡があり、大使館に僕が今こういう仮設の音楽ホールを計画していますと言うと、是非日本の政府として支援させてほしいいといい、当時の日本の首相である麻生さんが、ベルルスコーニさんとともに紙管をもってプレスの前でコンサートホールの建設を宣伝してくださって。まぁ何を持たされているか本人は分かってないと思いますけど(笑)。そのおかげでハーフミリオンユーロ、日本円で6000万円くらい寄付していただくことができました。この写真の建物が250人用のホールです。このホールの楕円の壁は、一つの音も外に聞こえないように設計しなくてはいけませんでした。でもコンクリートで作るとなると解体も大変ですし、作るのも大変でお金がかかってしまうので、この写真のように仮設台の間に砂袋をつめて壁を作りました。でもこのままではちょっとみっともないので、寄付してもらった赤いカーテンをまわりに纏わせて壁をつくりました。中は紙管を立てているのですが、構造ではなく、音を反射させたらある程度吸収することを音響設計家といろいろ試して実験して音響の為に作った、内装の壁です。この写真は、指揮者の西村智実さんが駆けつけてくださったときのものです。


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