平沼:植物から少し話しを変えて、藤森さんの建築の、内部空間と外部空間との関係について聞かせてください。

藤森: ゴシック教会・シャルトルの大聖堂を見たときに気づいたのですが、外部空間っていうのは人間の精神に働いてきて、内部空間っていうのは感覚に働くように思うのです。だから内部空間は、人を包むもので、外部空間は人を緊張させるようなもの。だから僕にとっては内部空間と外部空間は別のものだという感じが強いですね。それは現代のモダニズムの考えとはちょっと違うのかもしれません。それは、人に働きかける力が違うと思っているからです。

平沼:もうひとつ教えてください。その外部空間と建築にある地域性との関係はどのように考えられていますか。

藤森:歴史をやってきたので少し回答が変わっているのかもしれませんが、自然という場所で地域をみた時に、あまり差がないように思うのです。石があって川が流れていて、土があって木や草が生えている。たとえば、その草の割合は乾燥地では少ないし、湿地であれば多くなる。もちろん人がつくってきた地域という文明が存在するけど、青銅器時代のようなエジプト文明より以前のものにしか興味がないのです。

芦澤:先ほど藤森さんが歴史的な建築物から習うのは、それはルール違反だと仰っていましたが、日本的なヴァナキュラーなものなどには、興味をもたれていませんか。

藤森:ヴァナキュラーはとても好きです。それはヴァナキュラーなものは世界中同じだからです。日本の民家とアフリカの民家の差を本質的に聞かれたって答えられないからです。お二人はどうかわかりませんが、きっと会場の皆さんの知っている日本の民家は、古くて室町時代。たいていの地方で民家に固有性が出てくるのは江戸時代入ってからです。それがこの地、関西にはあります。神戸の三田にあります。土の壁の上に草を盛っているだけですよ。つくられたのは室町時代ですが、アフリカにある家と何にも変わりません。さっきの質問の回答にもなりそうですが、やっぱり文明を抜いた地域性って感じないんじゃないかな。

平沼:なるほど。

藤森:世界中みんな同じ事やっている。人類的に同じことをやっているわけです。だから寒いとこでは土を塗るし、上には草で屋根をかけるということです。

平沼:今日の冒頭で少し触れたことですが、ヨーロッパの学生間で「フジモリ」はヴァナキュラーな建築をつくる人っていう形容詞がついていたのです。そしてある一部の友達は、その精神的な取り組みのあり方を評して、アヴァンギャルドの先を不良っぽく言うのですね。まぁ、その頃まで主流だった、日本のポストモダン建築や混沌と都市を建築化したデコン、そしてモダニズム以外の現代建築をヨーロッパで学ぶ学生たちは見たことがないものですから、フジモリの建築はすごいぞ!みたいなことになっていました。

藤森:あれ僕が自分で言ったんじゃないよ(笑)。TOTOで作品集を出す時に、編集者がつけたのが「ヤバンギャルド」。それがとても気に入ってしまってね「ヤバンギャルド」。ヨーロッパの人に説明のしようのないようなものなのですけどね。
人類の歴史で新石器時代まで青銅器時代以前の人類は全く同じことをやってる。それで、20世紀以降の人類も全く同じことをやっていて。だから人類のね、最初と最後はみんなインターナショナルよ。真ん中だけが固有性がある。だから僕が興味があるのは、20世紀建築と、それから青銅器時代までの以前の建築なんですよ。だから20世紀建築にはものすごく興味がある。そこで安藤さんなり伊東さん磯崎さんとか親しいんですよ。彼らのやっていることにものすごく興味がある。それはね、人類は二度インターナショナルにものをつくった。20世紀建築のつくり方とつくられていく過程と、青銅器時代以前に人類がつくったことって面白い。みんな似たような事やってる。ある材料がある。その時代に最も普遍的な材料がある。それを使って出来るだけその材料を生かしてなんかつくろうとするんですよ。私にとっては、20世紀建築への興味と、文明化以前の人類の建築への興味は僕の中では今は繋がっているのです。

芦澤:なんかこう普遍的な物を造ろうっていうようなこう…意志

藤森:それはまぁ、普遍的な物を造ろうってか、だから20世紀建築と青銅器時代以前っていうのは普遍的ですから、差がない。ほんとに差がないんだから。それはもう、縄文住居と、あー、いいや。日本の民家とイギリスの民家を遠くで見たらほとんど同じですよ。近づくといろいろ微妙な差がありますけど。だからそういうものですよね。

芦澤:ではこういうコンクリート群もほぼ同じような姿をしてるっていうやり方ですか?

藤森:みんな同じですよ。例えば、萱で葺けば大体おんなじですよ。萱の性能で決まるんだもん。ヨーロッパに生えてようと日本に生えてようと、萱に差は全くないしね。これはね、とにかく絶望的なんですよ。建築と植物を美学的に一体化させるのは。絶望的なんだけど、これがなんとかならない限り、21世紀はないと思っています。植物っていうのは建築発生よりずっと前からあります、当たり前ですよね。植物は建築と関係なく自然の原理がありますから、建築と植物よりむしろ人工物と自然と言っていい。科学技術と自然、人間がやることと自然の関係をなんとか良い接点を見せない限りもう21世紀はない、ということを僕は20年前からずっと考えてたの。それがある一部の人には興味を持ってもらえるのかもしれないですよね。それとね、20世紀建築の理論っていうのは自然について一切触れないんです。自然が良いとも悪いとも言わない。20世紀建築の理論っていうのは自然について触れないところで成り立ってます。科学技術的によってつくるということで、その時は自然を否定も肯定もしてないんです。自然との関係を考えないようにつくった。自然って植物とかそういう意味ですけど、それが20世紀建築なんです。それをどうするかという大問題があって、伊東さんなんかまじめに考えてますけどね。難しいですよね。植物をやるために、その下の構造体が伊東さんのあの薄さが出ないんですよ。どうしてもあそこに。難しいですよね。だから、だからそういう意味ではね、あの、安藤さんは屋上庭園やらないのは偉いなと思いますけどね。恐らく安藤さんは、完全地下に埋めますけど、建築に植物を入れることの難しさってのをよく存じてるんじゃないかなと。 みんながこういう取り組みをやってくと、そのうちになんとかなるようような気はしています。

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