家成:

それで、最初はこういったかたちでイベント的なことをやっていたのですが、当然お金もなかったので、施工も自分たちでやるといったことをやっていたのですね。最初はこう、イベントと施工みたいなことをメインにやりつつ、途中で、もうちょっとアートプロジェクトみたいなことのテクニカルな側面というか、あるいは現場の施工の側面に関わる機会も増えました。それで、イベントもあるし、アートプロジェクトもあるし、施工もするし、設計も少しずつやり出した時期がありました。そこからさらに時を経て、一時期はしばらく普通の設計活動に従事しているときもありました。いわゆる、図面を書き、設計監理するという仕事ですね。そこから初心に戻るではないですけど、そもそも僕たちは、イベントもやりつつ、施工もやりつつ、設計もやりつつ、アートプロジェクトのようなかたちで色んな現代の作家と出会いつつ、現場を共有していく経験みたいなものを、もう一度ちゃんと捉え直して、自分たちの考える建築につなげていこうじゃないかと、最近考え始めているところです。
それで、今日お話しようと思っているのは、集団のクリエイティビティという題について、この217でお話させていただければと思います。ちょっと範囲を広げて、都市について考えるというのもいいのではないかな、と思っているんですけど、今、僕たちがしゃべっているこの淀屋橋、あるいは本町界隈というのは、東京までとは言いませんが、メトロポリスのど真ん中な訳ですよ。メトロポリスというのは通常、経済圏であったり、交通機関の通勤圏内という意味で、大都市圏というのが括られる訳ですね。僕たちが都市について、どういう考え方を持って、なおかつ自分たちの実践をどこからどうやって繋げていっているのかということを、集団のクリエイティビティというキーワードを通じて、今日はお話できればと思っています。
それで、高祖岩三郎さんという方が出された本で、こういうことを言っているんですね。僕たちが「都市とかかわること、都市を分析すること、都市について語ることー都市的アプローチは今日、『場所の固有性』を土台にしつつも、それを超える次元を開示している。(中略)われわれは場所の固有性をもとに思考し、さまざまななかたちで場所への執着?愛、所有権、特権?を育んできた。だが今日、明らかになってきているのは、どの場所も他の場所との力関係によって形成されるという次元であり地平である。言い換えると、それは都市的出来事が、その場所の固有性によってのみ生起しているという思考モデルの(悲しくもあり、かつ不可避的な)崩壊である。」*1 つまり僕たちが、通常コンテクストと呼んでいるようなものかもしれないですけど、場所の強い固有性みたいなものだけ考えていても、今の都市的出来事ということを考えることができないのではないかな、ということです。
「今日、さまざまな都市的思考が示しているのは、おそらくこの崩壊がもたらす両義性?場所の固有性が破壊されつつあること、それを超える可能性が開示されていることーではないだろうか。」*2
*1,*2
:高祖岩三郎『死にゆく都市、回帰する巷 ニューヨークとその彼方』p11 以文社 2010

大東:
ここが重要ですね。その両義性というか、ネガティブな話ではないんだと、そこから新しい展望が開けているのではないかというのが、高祖さんが問いかけていることです。
家成:
高祖さんはさらに、都市というものを楼閣と巷という言い方をするんですけれど、楼閣というのは、淀屋橋の街をちょっと歩くと分かるように、大きい建築とか大きい道路、あるいは地下鉄といった基盤的施設のことを楼閣と言って、一方で巷ということを対峙させる訳ですけれども、巷というのは我々のような一人一人が集合性と関係性を最大限発揮できるような状況や場所のことです。集合性というのは、つまりは芦澤さんとか平沼さんがされているような217の状況であったり、他にも様々なイベント、都市的出来事みたいなものが色んなところで起こるんじゃないかということです。「都市を考える時、われわれはまずそれを永続する構造、つまり『静態(stasis)』として想起する」*3。建築というのは一回建ったら僕たちが死んでも建ち続けているような気がしていますが、常にどこかで建設中だし、どこかで取り壊されて、都市は動いていると。「しかし、それをつくり続けている『かりそめのもの(ephemeral)』に視点を移すなら『動体(dynamia)』として見えてくる。そもそも建築は、遅かれ早かれ建て替えられ、住民も移動していく。かつての繁華街は寂れ、かつての廃墟にまた灯がともる。それは人類という長大な交通の中継点である。それが多種多様体としての都市、運動体としての都市、つまり『メトロポリス』の実体である。だから、都市の『言葉』は、静体と動体の間、場所と運動の間に存在する。」*4ということですね。
都市ということを話すときに、レム・コールハースがデリリアス・ニューヨークという本の中で述べていたんですけど、1811年にマンハッタンにグリッドが敷かれたときに、ヨーロッパと全然違う都市レベルができて、一つのグリッドがそれぞれの都市的自我を最大限に発揮する場所だとレム・コールハースは言いました。それは、いわゆる資本主義がどんどんつくり出す建築と、その中にいる民衆のうごめきみたいなものが絶妙のバランスを保ってつくっていたメトロポリスの例ですよね。例えばニューヨークでいうとSOHOという場所がありますけど、そこはもともと繊維業が行われていた場所ですが、そこから繊維業が周辺に追いやられた瞬間、大きい箱にアーティストが入ってきて、独自のコミュニティとネットワークをつくって、場所を活性化させてきたということがあります。
*3,*4 :高祖岩三郎『死にゆく都市、回帰する巷 ニューヨークとその彼方』p24 以文社 2010
大東:
レム・コールハースのビッグネスの話というのは、資源が豊かにあって、それをいかに利用するのかということが、資本主義が発展していくことだったと思うんですけど、明らかなことはこれから限られたリソースをどう分配していくかということにおいて、高祖さんの動体という視点から都市を眺めることが、一つの可能性を秘めているのではないかなと。
家成:
一つの計画でぴしっと敷かれてしまう都市ではなくて、むしろ多種多様な人たちをきちんと都市的活動ができるような動体として都市を捉えると、随分面白くなってくるのではないかなと考えています。
大東:
多種多様性というのが一つの問題、キーワードだと思うんですけど、いわゆる多種多様性というと、それは絶対的な善というか、それはいいよねという話になるのですが、よく言われている多種多様性がいいという話は生物学的な話、生物的多様性という話を是としていて、実は僕たちが扱いたいのは、社会的多様性ではないかと思っています。社会的多様性とは何かというと、同じ成人男性でも身体に障害があるとか、色んな事情で社会の中でうまく生活できないということがあると思います。そういった社会的マイノリティを含めた上での多様性だと。そこの生物的多様性と社会的多様性は、きっちり分ける必要があるのかな、と。その上で、多種多様性に眼差しを向けるということが、これから可能性があるのではないかと考えていきたいことです。
家成:
どんどん還元していくと、社会の多様性は生態的多様性に割と近づいてくると思うんですけど、社会的多様性は社会の生活の中における、例えば僕ら3人というのは、相当マイノリティな訳ですよね。きちんと毎朝7時に起きて、通勤電車の満員に揺られて、それがマジョリティかどうかは微妙ですけど、そういった生活は当然送っていない訳で、あるいは考え方もちょっとおかしくて、普通の人たちの考え方から、もしかしたらこぼれているかもしれないですよね。こぼれる僕たちみたいな者を、芦澤さんと平沼さんが優しく手を差し伸ばして、しゃべる場を与えてくれるということなんですけれども(笑)、そういうかたちで僕たちが発言できる場所みたいなもの、それは他の人にとってもそうかもしれないですけど、場所が都市の中にきちんと用意されているというのは、すごく健全ではないかなと思っています。
静体と動体の間ということから色んな考え方を導けます。普通、ヨーロッパの都市モデルというのは中心から周辺へと階層に従って広がっていく仕組みですけれど、マンハッタンが一番いいときというのは、各グリッドごとに中心がバラバラにある訳ですよね。その中心がそれぞれ面白い活動をすると。たくさんの行動とたくさんの言葉がひしめき合っているような場所というのが、動体としてはすごく面白いのではないかなと考えています。
そういったことを考えながら、今、設計中の建築をお見せしていければいいかなと思っています。

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