平沼:こんばんは、平沼です。今日のゲストは藤村龍至さん。
30代のゲストは初めてかもしれない。
芦澤:こんばんは、芦澤です。
そうですね、今日もよろしくお願いします。
藤村:新年度のお忙しいところ、お集まり頂いてありがとうございます。よろしくお願いします。
平沼:早速、簡単に自己紹介をお願いします。
藤村:藤村と申します。東京で設計事務所をやっておりまして、2010年から東洋大学理工学部建築学科で教員をさせて頂いております。
平沼:事務所はどちらですか?どんな所ですか?
藤村:渋谷です。なんて言うんでしょう、1階にあるんですけど、坂を上ったところの路面にあります。
芦沢:家賃高そうですね。
藤村:家賃は若干高いんですけど、1階ってすごく快適なので離れられない感じです。
芦沢:どれくらいの大きさがあるんですか?
藤村:スタッフが4名ですので、そんなに大きくないですけども。
平沼:どうして建築をやってきたのかを聞きたいなと思います。どんな少年時代を過ごされましたか?
藤村:少年時代は、郊外のニュータウンで育ちました。埼玉県の所沢という所で。ご存知の通り西武ライオンズ球場がありましたので、みんな西武ライオンズの帽子を被って小学校に通うという。その中で、うちは親父が神戸の出身だったのでいつのまにか阪神タイガースファンにさせられていまして、私と弟だけは阪神タイガースの帽子を被って登校するという、マイノリティとして過ごしました。
平沼:あぁ、たぶんね、ここの会場は阪神ファン多いのでみんな味方だと思いますよ。
藤村:関西ではマジョリティですが所沢ではマイノリティで、小学校1、2年生と、「お前は阪神ファンかよ、弱えよ」といってバカにされていたんですけれども、85年にタイガースがまさかの西武ライオンズに勝っての日本一という事が起こってですね、そこで革命的な地位逆転が起きました。盤石にみえる社会の秩序も一瞬で転換することを学びました(笑)。
平沼:(笑)そんな少年期の藤村さんが学生時代どうして建築学科にいこうと思ったんですか?
藤村:神戸の祖母のところに毎春休みと夏休みに来ていたんですね。当時、ポートアイランドとかハーバーランド、西神ニュータウンとかがどんどん出来ていましたよね。すごく憧れをもっていたんですけど、その神戸の巨大開発はもともと原口忠次郎という神戸市長のアイディアだと父から聞かされていました。原口さんは京大の土木を出て、いろんな現場を回って満州に渡って、戦後に満州から引き上げてきて市長になってこういうことを構想したんだと。土砂崩れ災害を無くすために山を削って土砂をベルトコンベアで運んで海に島を作って山と海の開発を同時にやり、竣工後はベルトコンベアの通っていたトンネルを下水道として使うという一石三鳥の計画を考えたという。それが原口市長という人で、ポートアイランドにその人の銅像があって、父と一緒に見に行ったりする内にそういう仕事をしたいなと思ったんですね。そういう都市全体の課題解決をするアーキテクトのイメージが最初は強くて、そういう所から入ってきました。 |