平沼:なるほど。最初の調査はどの辺にいかれましたか?
山本:最初は近いところへ行くつもりだったのですが、いろいろ調べていったらヨーロッパに行ったほうが安いことが分かって、若月幸敏っていう今槇総合計画事務所の副所長をしている彼と2人で調査コースを決めていました。当時は、ほとんど資料もなくて、ゴールドフィンガーという人のヴィレッジ・イン・ザ・サンという写真集があってね。ギリシャからイタリア、北アフリカから・・・彼が独りで行った素晴らしい写真集があって、それを見ながら、そこへ行こうということになりましたが、当時は未だ詳しい地図がなく、北アフリカからイタリアから全部載っている地図に黒い点でポンポンポンと位置が書いてあるのを頼りに、フランスでミシュランの地図を追加で買って、探しながら行きました。
芦澤:車ですか?
山本:はい。車はパリでプジョーを2台借りて、13人でいきました。
芦澤:(笑)満杯ですね。どのような場所を周られましたか?
山本:(笑)そうですね。パリから出てスペインに入り、ジブラルタルまで。それからモロッコからフェズまで行って、アルジェリアからアトラス山脈越えてサハラ砂漠の方に行き、そこにガルダイヤっていう素晴らしい場所があるのですが、あぁ、その写真持ってくればよかったな。あ、原先生が見せてくれますよ。そのガルダイヤからチュニジアに行って、それからイタリアに行ってイタリア半島をずっと南下していってギリシャに行って、それからトルコにいって。そしてモスクワ経由で帰ってきました。
芦澤:期間はどれくらいですか?
山本:3ヶ月くらいかな。
平沼:会場のみなさんもご存知の方が多いかもしれませんが、原研究室という、伝説的な研究室が東大にあって、山本先生はその始まりの研究生になるのですね?
山本:はい。1番最初ですね。その頃はきっと1人くらいしか大学院生がいなくて、僕は大学院に学生として入ったわけではなくて研究生として入りました。
芦澤:でも、すごいスピードで移動していたってことですね?この距離は車で調査しながら、3か月間はハードですよね。
山本:そうですね。1日に300kmから400kmは走っていましたね。そして調査してですから。かなりハードです。
平沼:とても興味深い話しで、いつまでもお聞きしていたいのですが、そろそろ本題の山本先生の作品をお聞かせいただいてもよろしいでしょうか?
山本:この話をしているだけで、終わっちゃいますよね。(笑)
平沼:(笑)はい、僕たちはこの話しも、とっても楽しいのですが、会場の皆さんはきっと、山本先生の作品を聞きたくて、聞きたくて・・・すみません。よろしくお願いします。
山本:大学院でもずっと歴史と住宅の勉強をしていました。それで住宅がどういう形でできあがってきているのかという研究と、今の住宅っていうのはどういう住宅なのかっていうのがずっと興味の中心で、歴史的には今みたいな住宅は、これ最近ようやく自分の中でも整理できたんです。これは、1920年代にベルザイマーっていうドイツの建築家のコンペ応募案なんです。これすごい風景でしょ。下には自動車専用道があって、上の方の7階建の上にデッキがあるでしょ?あれが歩行者用です。7階くらいのところは商業施設です。そして下にちょっと地下があって、下が白く繰り抜かれていますが、そこに地下鉄があるんです。
1919年って言うのはバウハウスができた年ですね。ワイマール共和国っていうワイマール憲法ができたのも1919年で、1918年に第1次世界大戦が終わったんですね。ドイツは、どうやってまた国をつくっていくかっていうことと、建築家たちが新たな建築をつくっていこうとしていることがほぼ同じ様な形で始まっていったんです。 バウハウスは1919年ですけども、それは国家的な学校だったんですね。つまり国家が非常にサポートした学校で、デザインを中心にしてもう一度国をつくり上げていこうっていうのが非常に強かったんです。ドイツ工作連盟って聞いたことがあると思いますけれども、ヘルマン・ムテジウスっていうプロイセンの役人なんですよね。 そのプロイセンの役人がイギリスにいってアートアンドクラフトの研究をして、そしてドイツに戻ってきて、ドイツ工作連盟っていう国家的な組織をつくったんです。それはスポンサーも呼んで、新しいデザインをつくる、そのデザインで国家を立て直そうとしたんですね。それがドイツデザインですね。AEGという電気会社のデザインをしたのがペーター・ベーレンス。ポスターデザインからそのグラフィックデザイン、プロダクトデザイン、もうそういうのもベーレンスがやって、AEGのタービン工場知ってるでしょ。あれもベーレンス。そういう形でベーレンスが中心になってそのデザインの方向を決めてったんですね。すごく合理的なデザインをしようとしていて、その機械の性能に合わせてデザインしようとしたんです。だから非常にシンプルで、でこぼこした部分が無くて。その一つですね、これは。これは住宅なんですが、この時から、一つの住宅に一つの家族が入るような住宅をつくり始めたんです。それも大量に。これがそのモデルです。一つの住宅に一つの家族が入るのが当たり前だと思っているかも知れないけれども、この当時のヨーロッパの都市は労働者が産業革命の後ですごい勢いで増えてったもんだから、満足な住宅なんか全然無かったんですよ。ですから労働者が詰め込まれる様に住んでいたとこに、一つの住宅に一つの家族が住むっていう、ほんとに夢みたいな住宅だったんですね。それが、こういう形で出てきていって。ブルーノタウトもこの頃の人ですね。これは典型的なその時の住宅。もう全部同じ。この住宅がどういうシステムだったかっていうと、まず一つの住宅に一つの家族が住む訳ですね。その一つの住宅をできるだけ画一化して標準化しようと。皆同じ家族。それは家族の画一化、標準化だった訳ですね。それはドイツっていう国をつくる時に標準的な家族で、画一化された家族を沢山つくっていかないと、これから国をつくっていく時に、沢山の労働者が要るじゃないですか。標準化した労働者のために、こういう住宅を造ろうとしていったんですね。それで、プライバシーが非常に高い住宅をつくったんですね。隣の家とはあまり関わらなくても住める。色んな人達が色んなとこからきますから、隣との関係は無い方が良い訳ですね。それから隣り合った住宅は相互に関係し合わないように、そういうコミュニティをつくらせない様にできているんですね。それから住宅に住む家族は、炊事洗濯っていうのはみんな主婦がやる。それで主婦っていう、その家族の維持管理者がこの中に居ないと成り立たない訳ですね。主婦は無給で、こういう維持管理をした訳ですね。主婦の倫理観というのはこの頃教育としても、主婦っていうのは、良妻賢母じゃなきゃいけないっていうそういう倫理観は、この時に住宅の供給と共に始まったんです。これは皆労働者が住んでいるんですよね。労働者のための労働力再生産の単位。子供、労働力を再生産する。子供をつくって、産んで、育てる単位。それから、新労働者による、労働者のための住宅。これ今もなにも変わってないですよ。 |