平沼:こんばんは。あっ、芦澤さん髪の毛切ったんですね。
もうあっという間に年末で、あと二週間しかないですね。いよいよ今日は山本先生がお越しくださいました。どうかこの貴重な機会に、みなさん楽しんでください。
芦澤:こんばんは。はい。(笑)
そうですね。今日もよろしくお願いします。
AAF:今年最後の217ゲストは山本理顕さんです。
1945年生まれ。東京芸大の大学院を出られ、73年に山本理顕設計工場を設立されました。主な作品には「埼玉県立大学」や「はこだて未来大学」、「横須賀美術館」などがあります。現在は、スイスのチューリッヒ国際空港複合施設の設計を進行されておられます。それでは山本さんにご登壇していただきます。皆様大きな拍手でお迎えください。
会場:(大拍手)
山本:こんばんは、山本です。今日はどうぞよろしくお願いします。
自己紹介は、先ほど紹介をしてくれた感じですが、1945年生まれで来年にちょうど70歳になるのですよ。
平沼:僕たち2人は、同級生で1971年生まれ。ちょうど学生の頃から山本先生が大変な活躍をされていて、その印象が強いせいと、そして、まだまだお若くいらしているので、70歳とは思っていませんでした。そもそも、建築学科に入られる前は、どのような学生時代をお過ごしでしたか?
山本:学生時代は、高校1〜2年まではバドミントンをしていまして、体育会系だったんですよ。なかなか強くはならなかったけど。だけど神奈川県の新人戦で3位。そう言うと凄そうだけどね、実は3位がいっぱいいる。(笑) だから、そんなに大したことはないです。
平沼:(笑)でも、県大会で3位というのは、相当、努力していないとなれません。それでどうして建築の方に進学しようとされたのですか?
山本:実はあまり記憶にないのです・・・。ただ、前川國男さんが設計された神奈川県の図書館がありますよね。建物の北側にはたくさんの窓や、とても大きな吹き抜けであったりする。その音楽ホールが好きで、よくその図書館に通っていました。もしかするとその頃から前川さんの名前は記憶していたかもしれないですね。
平沼:なるほど。ご近所に前川國男さんの神奈川県立図書館大学があったのは、豊かなことですね。その後、大学へ通われてからは、どのような建築学生でしたか?
山本:建築史研究会という研究会がありまして、その時から歴史が好きになったんです。3年目の時にその研究会の代表になりましたので、近代建築の勉強をしようということになりました。それまでは京都や奈良に出かけましてね。お寺だとか辛気臭いのをやっていたのですが、若いから面白くない。それよりも、その頃に興味をもっていた近代建築を勉強しようと思い始めたのです。その時はまだコルビュジエも生きていたし、フランクロイドライトも生きていた。もちろん全然、身近じゃないですけども(笑)、歴史的な建築家たちが同じ空間に生きていた。つまりその人たちが活躍していることと、近代建築史で勉強していることが、ずっと繋がっていたのです。ただ、19世紀の初頭から20世紀はどのように繋がっているのかって、今でも分かりにくいでしょ? 第1次世界大戦が終わったあとに、いきなり近代建築がつくられ始めるようになって、その意味がずっと分からなくて、最近になってまたそういうことを本に書いたのです。そういう歴史の勉強をしていて、大学院に入っても歴史の研究をしていたのですね。
平沼:山本先生のルーツは、歴史だったんですね。僕はてっきり計画系だと・・・はじめて知りました。
芦澤:原研ではなかったですか?
山本:そう。大学院を出たあとがちょうど、大学紛争の時だったのです。大学院の教官と非常にうまくいかなくなって、それで「出てください」って言われて。(笑) 出た後に、原さんのところに行き、修士論文にちょうど集落の調査をやるって話もあって、一緒に住宅の研究をやらないか?ということになり入ったんです。
平沼:その時、原さんはおいくつくらいの時だったですか?
山本:原さんが36〜37歳とかのころでした。原さんがまだ東大に教えに行ったばっかりで、することがまだ何にもなかったんです。それで時々変なことを思いついて『熱気球をつくろう』と言って、トレーシングペーパーを重ねて風船をつくったりして、ただトレペが重すぎて全然浮かなくて、燃え始めたという、そういうとことを研究してやっていました。
平沼:(笑)その頃の研究室は、どちらにあったのですか?まだ駒場ではなかった時期ですか?
山本:六本木です。黒川さんの設計された、今の国立美術館の場所です。
平沼:そうですね。写真で見させてもらった記憶があります。次回原先生がお越しいただけるそうなのでその時に山本先生の話も聞いてみようと思います。
山本:原さんが来られるのですか? でも、原研で教わったのは麻雀です。(笑)原研に行って麻雀を原先生と奥さんの若菜さんから手取り足取り。
平沼:その頃にはもう、アトリエファイはありましたか?
山本:もちろん。若菜さんが主宰されていて、原さんは大学の先生だから主宰できなかったんでしょうね。
芦澤:集落の調査も実際に現地へ行かれましたか?
山本:集落の調査は原研究室へいってすぐに始まり、SDという雑誌の編集長の平さんが、取材費用として100万円を出してくれました。その100万円がきっかけになり、皆でアルバイトして稼ぎ、最初の調査は全部自費で行っていたのです。 |