平沼:高崎さんが刺激を受ける建築家はいらっしゃいますか?
高崎:若い頃はいろんなものを見たり聞いたり勉強したので、基本的にいろんな人から影響受け、学んだことはたくさんあります。そういう学びから、高崎発信の建築を作らないと「高崎」として生きていけないということを、若い頃直感的に思っていました。若い頃から個展をして、海外で作品発表していると、日本人が少ないことに気づきます。自分は何だ、っていうメッセージを人に伝えられない事には世界の人と繋がらないと思っていたので、自分にしか出来ないオリジナリティを常に意識していました。
芦澤:現在は、この人の活動はおもしろいと思う方はおられますか。
高崎:そこにいる新田さんとか、君とか、そういうのは面白いよ。ドイツの建築家のフライ・オットーやシンケルが好きだし、恩師の作品とはお互い刺激し合っています。最近は先生も、僕の影響を受けているのではないかなと思ったりもします。
平沼:建築家として、ご自身の個性はどんなところあると考えていますか。
高崎:僕の良さは、流行を追いかけているのではなくて、流行から外れたものをやっていますので、本質的な事をやっているのではないかと思います。
平沼:次のプロジェクトの紹介をお願いします。
高崎:これは、鹿児島のアトリエです。最初は住まいでしたが、今は私が鹿児島アトリエとして使っています。ここのテーマは、文字通りゼロの空間を作りたいということです。日本に影響を及ぼした文明は5つあります。一つは古代神道、仏教哲学を受けたインド文明、儒教・道教の中国文明、明治期のアングロサクソンの文化、そして戦後のアメリカ文化です。この5つの文明の先例というか民族というのは世界でも珍しい存在です。そういうところに生まれた自分として、最初に作る建築は何にしようかと模索し、僕たちの生活に根付いている仏教のゼロの概念にたどり着きました。いわゆる空とか無をテーマにしてスタートしたいと思い、ゼロコスモロジーというものを作りました。特徴は、全部自然採光、自然換気でゼロエネルギーを目指しています。エネルギーを使わない建築で、間近に自然と向き合うことをテーマにしています。54の窓がついていて、そこから太陽の光が入ってきます。日本人も昔はそうでしたが、日本は太陽信仰の国で、シンボルが日の丸です。太陽のエネルギーを感じとれる窓をつくりたいと、こういう窓をつくりました。光が、太陽のエネルギーがビーっと自分側に差し込んできます。光の強さに、気の弱い人だとひるみます。形はゼロの空間といい、ゼロと言うのは天にも属さない地にも属さない、宙に浮いた状態のエネルギーが充満しているかたちです。この下には約直径6mの円形の水があります。水の上にゼロの空間が宙に浮いていて、そこに自然の光が射します。夜には月の光が刻々と時間と空間を刻んでくれます。
芦澤:今、高崎さんがゼロエネルギーとおっしゃっていまして、巷で言われるいわゆる環境建築とは違うスタンスでしょうか。
高崎:哲学が根本から違いますが、そういう意識が世の中にあるというのはとてもいい事だと思います。私のこのスタンスは長い間90年代に、過疎地にずっと向けられていました。日本には限界集落というところがたくさんあり、日本だけでなくアジアやヨーロッパ、東京の都心、多分大阪もそうでしょう。90年代は限界集落に意識を向けてきたのです。子供のころに、農村にはもうじっちゃんばっちゃんしかいない、若い人はもうほとんどみんな都会に出ます。そういうのを間近で見たり聞いたりして、各農村をずっとまわってそれについて調査をしました。その中で一番の問題は高齢化です。高齢化は死の空間にどう向き合うかということです。死というのはクリスチャンにとっては契約された社会だからある意味厳しい概念ですが、我々は死に対して輪廻転生とか、一つの生死が循環する思想を持っています。これは、そういう農村地帯の人たちのために高齢者の人たちの家を作りたいという気持ちと行政の意向が一致してできた高齢者の施設で、温泉施設です。高齢者施設というと、例えば幼稚園とかね、いかにも幼稚園というもので少し聞こえが悪い。僕がいま、60歳になりましたが、気持ちはむしろ20歳のときより若返っている気がします。髪の毛は白くなりますが、人間は年齢とか生死を越えたところに人としての価値を位置づけたいというのが僕の建築のテーマです。それを離脱とか、超俗というテーマでこういうものを作って行くことですね。右が広場で、左から太陽と月をシンボライズした講堂です。 |