2 1 7[ nie - ichi - nana ] 第23回

日 時 : 2014年 5月 9日 PM 7:00〜
会 場 : 大阪・心斎橋 カッシーナ・イクスシー大阪店

ゲスト : 高崎正治
対 談 : 芦澤竜一 平沼孝啓

平沼:簡単に自己紹介をお願いしてもよろしいでしょうか。

高崎:私は、鹿児島県の指宿市という温泉地のまちに生まれました。長い間、故郷に生まれた理由を模索していました。小学生、中学生の頃に世界地図を見ていましたら、自分の国が地図の端にあり、これほど田舎の国に生まれたのだなと驚きました。九州にある鹿児島は、またそのさらに果てにあります。これにショックを受けたことを機に、世界言語で勝負できる職業を持たないと、この国から抜けられないと思い、物人建築というものを立ち上げました。作品を通してふるさとに生まれた理由を追求してきました。

平沼:どのような少年時代でしたか?

高崎:小学生のときには、平面作品をたくさん作っていました。平面作品は、今もそれほどに変わりませんが、追求していくと非常に論理的で、左脳的で、哲学的な仕事です。それが、どんどん行き詰まっていきます。行き詰まって、平面を立体化したいと思うと、立体絵画、いわゆるキュビスムの世界につながります。キュビスムの世界をさらに追求していくと、オブジェに行きつきます。オブジェをさらに発展させていくと彫刻につながっていき、彫刻の中に空間をつくると、中の空間と外の空間が発生します。その中の空間に人を置くと、人はそれを建築と呼ぶということを、14歳の時に発見して、それで建築家を目指しました。

芦澤:平面作品をつくられ始めたのは何歳ぐらいからですか。

高崎:小学生の頃は、図画工作の先生の影響もあり、日曜日になるとよくスケッチに出かけました。そういうものをベースにしていました。そして、中学生の時に、建築の中に総合芸術の原則があるということを知り、平面絵画、それから彫刻、オブジェ、建築に移行し、新しい建築をつくりたいって思うようになりました。

平沼:高校生の時は何をされていましたか。

高崎:中学生のころから作品を作り、発表し、それから個展活動を長い間行いました。その頃は、政治の話や政治活動がとても盛んでした。そういう中で、そういったものと少し関わりながら、新しい時代の人をつくるには、政治ではなく、意識の変革を目指さないと新しい国は生まれないと思うようになり、19歳の時に草案をつくり、20歳の時に物人研究所を立ち上げました。それが今の事務所の母体になっています。

芦澤:その頃は大学生?

高崎:大学生です。大学2年生で草案をつくり、大学3年の20歳をすぎたあたりから満を持して、発表しました。当時は100人くらいのメンバーがいました。そのころ建築の世界において、新しい建築の情報の発信源は、イギリスのロンドンにあるAAスクールでした。そこで自分を試してみたい、自分はどの程度の人間なのか、自分の建築にオリジナリティはどのくらいあるものなのか、というのを見せたいと思い、展覧会にいきました。

>>続きへ


| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | NEXT