平沼:いきなり行かれたのですか?

高崎:自分たちで貯金していました。みんなで行こうという感じでしたが、個人的な思いと、その当時、新建築という雑誌社のコンペがあり応募しました。その母体は、卒業制作の案です。それをベースにして、コンフュージョン、日本では“混線”といいますが、コンフュージョンを発表できると思いました。向こうの学長さんが私を呼んでくれたということと、私の今の師であるピーター・クックという教授が呼んでくれたということ、日本ではなくてヨーロッパで自分の作家活動を展開したい、そういうものがぴたっと重なり、公私ともに重なることとなり行きました。

平沼:それは何歳ぐらいの時ですか。

高崎:それは23のときです。大学を卒業して行きました。

芦澤:しばらくはAAスクールに通われたんですか?

高崎:AAスクールで教えてくれないかとか、色々条件がありましたが、その当時、ドイツのシュツットガルト大学にも先生をしてくれと呼ばれていました。

平沼:それも23歳の時ですか?

高崎:はい。シュツットガルト大学に行ったのは、僕の中で、バウハウスの本質を知りたいと思ったからです。バウハウスは、モダニズムデザインや近代の建築の源をつくった大学です。私の中でその本質を知りたい、そこの教授達に会って話をしてみたいという思いが強くなり、南ドイツに行きました。そこに行きますと、ミース・ファンデルローエや、コルビュジェ、そういう錚々たる世界の建築家の作品が集合住宅の形で残っています。

平沼:なるほど。何故建築をしようと思われたのですか。

高崎:そうですね。世界言語でできる仕事をやりたかったので、最初はスポーツもいいとか新聞記者になる、そういったことを考えていました。スポーツと芸術文化は歴史とか、国境を越えてしまいます。建築も言葉がいらない世界です。そういう意味で、建築は人種にとらわれない、自由な職業だと思います。そういう思いで建築家をしています。

芦澤:芸術家、アーティストではダメだったのですか。

高崎:それは先ほどの、中学生の時の衝撃の体験がもとになっています。絵は平面的で、人間存在の全体に関わるのが建築です。絵は視覚に頼るので、目だけでいいです。彫刻だと触ってはいけない。建築は関心があろうがなかろうが関係ありません。鈍感だろうがなんだろうが関係なく、すべての人を包み込んでいきます。無意識的に意識を取り戻せるのが建築空間。それで建築を選択しました。その時は音楽もつくり、音楽コンクールにも音楽を出しました。

平沼:どんな建築空間を作りたいと思われていましたか。

高崎:それはさっきも話しましたが、当時はちょうど、建築というと流行の、フランスのル・コルビュジェとか、ベルリンのミース・ファン・デル・ローエ、アメリカのフランク・ロイド・ライトだとかがいました。そういう人たちや、たまにガウディとか話題になっていました。今でもそうですが、常に西ヨーロッパの建築を意識して、アジアの人はやっています。それがとても嫌で、どうしてこんな端の国が、西ヨーロッパの人の建築を勉強し、関心を持たないといけないのかと疑問がありました。そこで自分発のオリジナル建築をつくりたいと思い、物人建築を始めました。

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