平沼:こんばんは。きょうはよろしくお願いします。
芦澤:よろしくお願いします。
手塚:はい、きょうはどうぞよろしくお願いします。
平沼:今日は、いまここにきてくださった手塚さんの頭や手でつくられる作品が、どのようにつくられていて、そしてその作品をつくられる手塚さんがどのように育ってこられたのかということや、そのルーツのようなものを知りたくて、いろいろなご質問をさせていただきたいと思っています。 できれば、時系列に順番に引き出したくて、まずは自己紹介をしていただいてもよろしいでしょうか。
手塚:はい。こんばんは手塚です。(笑) 今日、ここにきてくださって視聴をされているみなさんは、大学に通われ卒業をされた方や、未だ学校に通われている方もきっと多くて、手塚はどうやって勉強をしたのかと思う人もいるかもしれませんが、実は私、受験をしたことがないのです。
それは、そもそも私の父が、鹿島建設の設計部長だったことからはじまります。父は建築をそして鹿島建設をすごく愛していて、ご存知な方も多いかもしれませんが、鹿島出版が出されていたSDという建築雑誌の創刊にも関わっていたりするくらいの人物でした。
平沼:鹿島建設、そしてSDのはじまりに関わるような方でしたか。
手塚:はい。だからうちにそういう類の建築雑誌がいっぱいあった空間で育ちました。でも、それくらいが建築家になったきっかけで、あとはずっと遊んでいたんですよね。普通の地元の公立小中学校に通いました。その後、中学校からの推薦で、武蔵工大の付属高校に行ってですね、そしたらまたたいして勉強してなくても、大学に行かしてもらえるんですよ。
平沼:いやぁ、それは本当ですか?(笑)
手塚:いや、ほんとほんと。(笑) それで、大学に行ったら、そこに新居千秋さんという、建築家の方がおられてですね。「お前このままでいると、そのまま、鹿島建設のような社員になっちゃうよ」。と注意をされるような学生で、でも私は父がそうでしたから、何もそれは悪いことないなぁ?と一瞬、思ったのですけども、でも、それもそうかなぁ?と思い直し、すこし違う場所でもいいかなぁ?と思ったことから、留学をすることにしました。
会場:(笑)
手塚:ちょうどその頃には、レンゾ・ピアノさんがペンシルベニア大学の客員教授をされていたので期待して行ったんですが、結局ペン大に来なかったんです。アレックス・ウォールという先生にリチャード・ロジャースさんを紹介されて、ロジャースさんにいつから働いたら良いんですかって聞いたら、今日からって言われて、いきなりやることになって、4年くらいいました。事務所を辞めるきっかけになったのは、4年目のある日、日本にいる私の叔父が病院の設計をしてみない?と言ってきたのです。 実はその頃の私は独立する気は全くなかったのですが、リチャード・ロジャースさんに「あなたがいてくれっていうならやめないでいてあげるから」って押しつけがましく言ってしまったら、じゃ、やめていいよっていう話になってしまって。それが機会になってしまい日本に戻ることになりました。それからその病院を設計をすることになり、竣工するといろんな賞をいただくことができて、「大学の常勤になるかい?」という話しをいただくことになり、いつかはロンドンへ戻るつもりが戻れなくなって、なんかずるずるっとしていて。
たくさんいる建築家の皆さんのように、建築家って頑張んなくちゃ、っていうことは何もしていなくて申し訳ないんですよね、すごくいい加減なんです。
平沼:いやいや、そんなことありません。ペンシルベニアへ留学をされることも、そしてロジャースさんの事務所で4年間勤めあげることも、相当な精神力だったり、意識が高くないとできなかったはずです。そのほかには、何かされていましたか?
手塚:あとは・・・日本一周自転車でしたりとか、あと泳ぐのがすごく得意だったりとか、腕相撲が得意だったりとか。(笑)
平沼:ふはは〜。(笑)
会場:(大笑)
手塚:ははは〜。(笑)まっ、そんな人間です。
芦澤:最初の作品は何歳くらいの時につくられた建築ですか。
手塚:完成したのが31歳ですね。副島病院っていう4,000uくらいの病院で、いくつからの賞をいただくことで励みになりました。
平沼:僕たちのような下世代は思ってたんです。普通なら住宅だったり小規模の建築なのに、なぜ?どうして病院だったのか。
芦澤:そう、いきなり病院でデビューをされたですからね。
手塚:それはね、おもしろい話しがあるのです。あっ、もうスライド使わないでこの話しましょうか。(笑)
平沼:いやいや。せっかくお持ちいただいたスライドがたくさんありますのに、ダメです。(笑)
会場:(爆笑) |