それは多分さっき、公共性という言葉が出ましたけど、公平性という言葉の共有性って近いような気がするんですけどね。共有は「共」が入っていますかが、要するにコモンウイルスというか、みんな財産を持っておこうとこれが有形のものであれ、無形のものであれ、みんなでそれを持っておこうということだろうと思います。これは公共性と不可分でしょうから公共的なものに対してどういう風にトライしていくかということでしょうね。ただ、公共というといきなり行政とか官になっちゃうというねじれた関係でしょうね。パブリックという言葉をやっぱり明治のときに「官」と訳してしまったことがある意味では間違いだったんでしょうね。ただし、時代的には「公共」はみんなに理解されなかった。要するに公方様がいて御上がいた江戸時代から、どういう風に公方様が担っていた、あるいは徳川が担っていた「公共」をみんなに理解してもらうかというと、もうあの「官」という文字をあてるしかなかったんですよね。でも、いまは「官=パブリック」でないことは明らかになってきてます。イギリスだとパブリックスクールって言ったら私学の学校のことですよね。パブリックスクールって公立じゃなくて私立で、お金持ちの人たちがお金を出して作った学校をどれだけパブリックに開いているかということが問われているので、パブリックは実はプライベートがちゃんと集まって出す公共圏のことだと思うんですよ。そういう意味でいうとパブリックを問うときに、パブリックをパブリックのまま料理してはまずいですから、市民とかみんなとか言っていますけど、実はそう言っているときに個人個人の名前だったり、顔だったりとかが思い浮かんでいるんですよね。誰だかわからない公共な話というのはしたくないな思っています。それをどういう風にみんなと共有していくか広げていくかが次の問題だと思うんですよね。つまり山崎がやっているのは100人とやっていると言ったって、たかが100人じゃないかと。たとえば、1万人の都市で100人の人と総合計画をつくったら、残りの9900人の人たちはこの総合計画に関わっていないということになるじゃないかみたいな話がやっぱりある。これはどう共有していくかという問題でしょうね。それについては公平性という話と近いような気がしているんです。19世紀のイギリスの経験主義のジョン・ロールズはが提唱した公平性の三原則というのがありますね。公平性を担保するためには三つの条件を整えておけば、それでいいんじゃないかと言っています。黒人の奴隷解放の文脈ですけども、第一点目は、こういうことをやろうぜということは遍くみんなに告知をすること。情報がこなかったみたいな話がまずいから、みんなに告知すること。第二点目は、いいねいいねやりたいねと手を挙げた人たちとだけやっちゃえばいい。予算もそこに投入すればいい。これは公平であると。第三点目は、その状況を見ていて、俺もやりたいんだと遅れて手を挙げられる仕組みをちゃんとつくっておくこと。この三つが担保された場合、公平であると言っていいんじゃないかという風に言っています。僕は結構、これを論拠にしているんですね。行政の人たちが一部の人たちと計画をつくって、これでみんなの計画ができたと共有していいのかと問われることが多いんですけども、それはこの計画をつくりたいと手を挙げた人たちと一緒にやってるわけでこれ以外の人たちは来ちゃだめよと言っているわけじゃないので、遅れて来れるような状況をいつも門戸を開いておけば、これは公平性の原理に則って話を進めてますという風に説明しています。だから、話し合いのプロセスは常にその他の人たちにオープンにするようにしています。今日持ってきていますけど、いろんな冊子をつくります。なんかプロジェクトをやるとすぐに冊子を作ります。ウェブにアクセスできない人たちでも話し合いしている中で手渡しで、どんどん話を進めても広げてもらえるように、こんなおもしろいことをやっているのかと、遅れて、俺も参加するわという風に言ってくる人たちに門戸を閉じないために、そういう風に情報発信しなければいけないし。多分ここでいうところのみんなの中にある共有性というのをどういう風に担保していくかということなんじゃないかなと思っていますね。
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