長谷川:富山県の大島町にある絵本館です。湘南台の後、この大島町のお母さんたちが町長さんと一緒に事務所にやってきてですね、湘南台のこども館を見て凄い感銘を受けましたと。これから大島町でつくる予定の絵本館の内容と運営がどうあったらいいか、1年考えてくださいと。300万で考えてください、300冊納めてくださいと依頼されました。冗談かなあと思ったけど、プログラムをつくるのは面白そうだから引き受けました。結局、そのプログラムが評価されて建築の設計もすることになりました。まず、絵本がただ並んでいるだけではどうかなと思って、「絵本をつくる」っていう大きなテーマを掲げました。地下にはたくさんの絵本を収蔵する書庫もあるんですけど、ここでは読むという受動的な体験だけではなくて「絵本をつくる、発表する、展示する」っていういろんな活動ができるようになっています。右側の所がそこで1冊しかない絵本をつくる場所なんですね。隣に製本所とかあってコンピュータもあって。展示コーナーやエントランスホールと連続したパフォーマンスの場、ホール、キッチンもあるワークショップなどもあります。オープンした時は、東京から結婚のための記念の絵本を二人でつくりに来るという人がいました。ほかにも1年に1度、1冊しかない手作り絵本の国際コンクールをずっとしています。ある日、韓国のお子さんが1等賞になって20万円だか30万円の賞金をもらったので、東京見学ができましたといって、その子とお父さんとお母さんとお婆さんとお爺さんが事務所にわざわざありがとうございましたってお礼に来られたこともあってびっくりしたことがあります。大人部門もあって、1等賞になった絵本は出版されるんですよ。ホールでは小さなオペラをやるとか。そういう運営のプログラムをつくって凄く評価していただきました。こんな小さい建築なのに珍しく、公共建築賞っていうのをもらったんですね。
 新潟のコンペは1995年でした。藤村龍至さんが言う、バブルが終わって、エンジニアリング中心の建築が終わって、ネクストステージに入る年です。藤村さんは「ソーシャルアーキテクト」を名乗っている若い建築家で、市民集会や投票をしながら社会の要望を読み解いて建築を作ろうと。私は頼まれもしないのに市民集会などを開いた湘南台のあと、すみだ、絵本館とプログラムへの提案や市民たちとのワークショップをしてきました。まだまだ建築家がプログラムづくりや市民と直接関わることへの抵抗が大きかったのですが、少しはそういう活動が社会的に受け入れられ始めたかなという感覚がありました。新潟ではコンペのあとすぐにN-PACという音楽、演劇、伝統芸能の専門家を集めたプログラム作りや市民とのワークショップ、運営スタッフの育成に着手することができました。建築家が建築を作るときに、プログラムづくりや市民との対話集会、ワークショップを同時に進めていくやり方が表立って拒否されるということはなくなりました。実際に活動を始めるとまだまだ抵抗がありましたけれども。笑。でも、コンペ直後からオープニングの時までずっと5年間そういう活動をやっていました。
 新潟の敷地は日本庭園と神社のある白山公園と信濃川の間にあって、ランドスケープも大きなテーマでした。信濃川は当時すでにコンクリート護岸で整備された近代的な河川でしたが、昔の信濃川下流域の地図を図書館で見ると、浮島がいっぱいあったことがわかる。阿賀野川には浮島の風景がちょっと残っているんですが、その浮島でお祭りとか能をやっているような絵が残っているんですね。それで信濃川の原風景を再生するんだといってアーキペラゴ、つまり群島をテーマにして、隣接する白山公園から信濃川まで含めて敷地全体のランドスケープをつくりました。いっぱい空中庭園を作って、信濃川から白山公園まで全部ブリッジでつないで全部緑化してしまおうと。信濃川の護岸も緑化してもらおうと。この信濃川沿いの二つの空中庭園は実は道路の上にかかっているんですよ、岸辺にそのまま繋がるように。白山公園と一体化して見えるのは、平に走っていたこの市道を地下に潜らせてそのトンネルの上に人工地盤を作って繋いでいるからなんです。浮島をいっぱい作ったのは、コンペですごい台数の駐車場を要求されていて、川のすぐ近くで地下にいれることもできないという事情もあって島の下に入れたからなんですが。こうやって敷地全体を緑化をしていますから、すぐ隣は市役所なんですけど、真夏なんかはここと気温が2、3度も違うそうなんです。
 市民とのワークショップを通じて、世阿弥が晩年佐渡にいたこともあって、新潟には能楽堂があちこちにあったり、綾子舞っていう、国宝になっている若い女の子たちの美しい踊りとか、お祭りとか、市民の生活の中に伝統芸能が沢山あることがわかってきました。それで、ただ専門ホールをつくるだけではなくて、そういう市民の活動に応えたいと思いました。7つの空中庭園をいろんな市民の活動を支えるための場所にしようと。実はコンペのときから、すごく専門的なホールとして2,000人はいる、ウィーンフィルがくるような立派なコンサートホールとか、1,000人はいるシアターとか、人間国宝の方々がくるような能楽堂というプログラムが要求されていることに疑問を持っていました。なぜこんな専門性の高い3つのホールや劇場が公共建築として必要なのか。なんでこんな厳密な音響設計をするのか。なんでこんな厳密な劇場の装置をつくるのか。それはもうそれぞれの専門家のためのホールでしかないと。つまり、市民たちは、専門家が提供するハイレベルな文化をありがたく鑑賞する存在でしかなくて、そこで活躍する人たちだとは思われていないのだと。だから、ロビーや空中庭園を市民自身が使える場所にしたいと、コンペの後積極的に提案してきました。やっぱり、公共建築っていうのは権威のシンボルだった歴史が長くて、誰でも使っていいんですよ、こんな風に使えるんですよ、自分たちで使い方を提案していっていいんですよ、皆さんのものなんですよとやらないと、なかなか本当に使って欲しい人たちに受け取ってもらえないんですね。

平沼:なるほどなるほど。

長谷川:そうやって、運営スタッフの育成や、専門家から市民まで使えるプログラムづくりなどをやってきた成果だと思っているんですけど、新潟はとても利用率が高いんですね。今ちょうどオープンして16年目ですが、休む暇もないくらいもの凄くよく使われてきたので、コンサートホールの床とか凄く傷んでいて、これから大掛かりな舞台装置関係のリフォームをするんです。リフォームでしばらく使えないので、その直前に色々なイベントが開催されています。前からの積み重ねもあると思うのですが、この間そのリフォームの打ち合わせに行ったら、今回のイベントは長谷川さんが最初につくったコンセプト通りに実現できた、凄く活気があった、というような報告を新潟市の担当の方たちからいただいて、ようやく本格的な使われ方していていいなあと思って帰ってきたところなんです。

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