平沼 : シーラカンスの名前の由来は何ですか?
小嶋 : 7人で始めたのですが、そのうちの6人が東京大学の原研究室 でした。原さんの事務所は、今でもアトリエファイという屋号で、ファイというのは数学記号ですね。それから4年くらい上の先輩に、アモルフの竹山聖さんがいらして、アモルフというのも数学なのです。同じ世代の宇野求さんはフェイズアソシエイツと、みなさん数学の知的な名前を付けていらっしゃって、違うことをやらないといけないのではないか、と思っていました。
芦澤 : なるほど。(笑)
小嶋 : 当時は トヨタが、Cで始まる名前のクレジットは全部押さえているというウワサを聞き、そんな時代だったので、僕たちもCで始めるのがいいんじゃないか、とかいろいろ言いながら、シーラカンスに関係ない大学院生まで含めて、思いついた名前を紙に全部書いて、その中に出てきたのがシーラカンスだったのです。
芦澤 : そうですか。
小嶋 : シーラカンスについて エンサイコロペディアで調べてみると、記念日があると書かれています。 初めて見つかったあと、二十数年見つからなくて、次に見つかったのは、確か12月20 日だったと思います。2匹目が見つかるまでは、アフリカでは、あれは詐欺だったのではないかと言われたりもしていたようです。冷凍技術がない時代だったので、記録はしたけど、溶けてしまったという説もあります。
芦澤 : なるほど。
小嶋 : あとは、コモロ諸島 では幸福を呼ぶ魚と言われているそうです。それはシーラカンスがとれると、高く買ってもらえるからだと思うのですけれど。
芦澤 : そういうことですか(笑)。
小嶋 : たまにしか見つからないので、世間を騒がすみたいな感じが、85年当時はまだあったのです。出ずっぱりよりはその方がいいよなぁ、でも世間も騒がせたいよなぁ、というようなノリで付けました。いちばん大事だったのは 、覚えてもらいやすいということです。
平沼 : そうですよね。
小嶋 : でも、グローバルだと思っていたら、シーラカンス を知っているのは日本人くらいでした。ヨーロッパ では、よっぽどマニアックな人じゃないと、「シーラカンスって何?」って聞かれます。延々説明をしてもわかってもらえない ですよ。日本なら、タバコ屋のおばちゃんに領収書を書いてって言っても、シーラカンスってぱっと書けますからね。
平沼 : なるほど(笑)。
芦澤 : シーラカンスを始められたきっかけというのは、先ほどご説明をいただいたように、コンペをとられて、大学にも在籍している中で・・・
小嶋 : いや、コンペは 、事務所を始めたからとらないと仕事がないので出していました。SDレビューに入賞したのが、始めたきっかけです。
平沼 : そうですか。
小嶋 : 最初はそれぞれが、自分でとってきた仕事を個人でやっていました。シーラカンスという名前で事務所を借りて、だったら共同でやってみるかということになったので、順番としては共同設計の方が後なのです。
芦澤 : なるほど。あの、ちょっと失礼な質問なのですが、最初の頃は、食べられていましたでしょうか。たぶん若くしてデビューする人は、みなさん同じ悩みをもつと思うのですが。
小嶋 : 何で食べていたのかよくわからないですけど、基本的に京都にいたときは お風呂のついたところに住んでいたのですが、東京に引っ越し たら、家賃が高いので、お風呂なんてなくていいやって、そのままずっとそういう生活をしていたので、1か月暮らすのにそんなにたくさんお金がかからなかったということはありました。
芦澤 : つまり、入金がそんなにたくさんいらないということですね(笑)。
小嶋 : 適当にやっていましたね。 一般的に豊かだったかと言うと、そうでもないでしょうけど、不自由な感じも別にしていなかった気がします。
芦澤 : 先ほども少しお話いただきましたけど、赤松さんがシーラカンスで働こうと思った決め手はなんだったのですか?
赤松 : その頃は、桜台アパートメントがちょうど出来上がるくらいだったのですが、いろんな人たちが 活動していて、何か勢いがあって、面白そうだなと思いました。一人のボスがいる設計事務所とちょっと違うところも、かなり新鮮でしたし、実際に事務所でアルバイトをしてみて、ボス型の事務所で「これやっとけ」と言われるよりも、みんなで議論しながら、やっていく、つくっていくというのが、すごくおもしろそうだなと思ったというのがありますね。
芦澤 : 入られたときは、何人くらいいらっしゃったのですか?
赤松 : メンバーは、当時4人くらいで しょうか。確かパートナーの方がスタッフよりも人数が 多かったです。
小嶋 : ピースセンターに勝って、模型をつくっている頃ですね。
赤松 : そうですね。
芦澤 : なるほど。
では、お二人に次の質問です。なぜ、建築家になろうと思われたのでしょうか。何かきっかけがあったのですか?
小嶋 : 建築家になろうと思ったのは、僕は早かったです。大学を受ける時点で、建築学科に行って、建築家にならなかったら、さっさと建築はやめよう。そのくらい、建築学科=建築家でした。昔、出した本のインタビューでも 話しているのですが、 大阪で育って、父親は企業のサラリーマン、母親は小学校の先生という家だったので、起業家精神とか、 そういうものは全くないような家庭だったのです。さらに、そういう親にありがちな、息子はできれば医学部に放り込みたいというような、そういう環境でした。一方で枚方と言っても、新田辺の駅に近いと言えば、わかってもらえると思いますが、すごく田舎です。万博よりも前に小学校 に通っていましたから、1学年20人くらいでした。
芦澤 : そうですか(笑)。
小嶋 : そういう状況だったのが大阪万博による好景気で ダンプ街道になっていった時代に育って、そういう身の回りの環境から抜け出したいなと考えていました。
あとは、30歳になったときに、派手な車に乗っていて、好きな格好をしていて、仕事ができているって何だろうって考えたときに、建築家がいい。それは馴染めると思いました。
芦澤 : なるほど。そういう不純な動機もおありだったわけですね?(笑)
小嶋 : はい 。不純な動機はすごくあるけれども、片方で建物をつくるのはおもしろそうだなと、素朴に子供の時に思っていましたね。自分でとにかくつくりたい。お稽古事でいっぱい教わるよりは、とにかく早くやりたいっていう感じはありました。
芦澤 : なるほど。あこがれの建築家とかはいらっしゃいますか?
小嶋 : これ、どのくらい真面目に答えたらいいの?(笑)
芦澤 : (笑)
小嶋 : よくある話で、小学校6年生くらいのときに、最終的には積水ハイムの関西第一号になったのが、今でもうちの実家にあるのですが、それをつくるときに住宅の本とかを買ってくるわけですよね。今でも覚えているのは、吉村さんの別荘と、清家さんの自邸と、東孝光さんの巨大な家具がレールの上を動く家があって、その3つを見ていて、すっごくおもしろいなと思った、というのが僕の 少年時代です。
芦澤 : なるほど。赤松さんはいかがですか?
赤松 : 私 は 、日本女子大学の付属の高等学校から日本女子大に入ったのですね。高校の頃は、普通に英文科でも行くのかなと思っていたのですけれども、高校2年生くらいのときに、英文科って言っても何をやるのかなと思って、その頃に、いろいろ本を読んだり、展覧会に行ったりしていると、何か建築とか、美術とか、いろいろな要素というものが、時代時代で絡んでくる。例えば、アールヌーヴォーの流れがあって、アールデコがあって、その何十年代があってというものが、ひとつの流れの中にいろんな要素が浮かび上がってくるのが、ものすごくおもしろいなと思い始めたのが、ちょうどその頃です。それで、ふっと見ると、うちの大学って住居学科というものがあるじゃない、って思ったのですね。そういう意味ではかなり偶然、大学に住居学科というものがあって、そうすると建築とか、そういうものがあるのだとしたら、それはおもしろそうだなと思いました。あとは、子供のころから工作とか手芸が大好きだったのですね。 図工とかで、糸鋸とかって、普通は男の子に女の子がやってもらうのを、その男の子の分まで横取りしてやっていたっていう 子供でした。
芦澤 : やりそうですね。(笑)
赤松 : 工作をトンテンカンやるのも好きだし、手芸や刺繍のような、何かを縫ったりするのも好きだったので、とにかくつくっているのが大好きでした。その両方が絡んで、建築とか住居というものがあるのだったら、そちらの方が絶対におもしろそうだなと思って、その方向に入りました。
芦澤 : なるほど。僕は早稲田の付属高校だったのですが、日本女子大の付属高校とコンパとかしていました。
赤松 : よくありがちな(笑)。
芦澤 : はい。よくありがちな(笑)。
赤松 : 私もそんな記憶があります(笑)。 |