芦澤:少し過去のお話を伺いたいのですが、先ほど個人住宅、初期の住宅の話をして頂いて、長谷川さんの住宅っていうのは空間の内部から考えられて、ちょっと言葉は違うかもしれませんけれど、閉鎖的で内部の空間をどうつくるかと。その時代、安藤さんとか伊東さんも内向的な建築をやられていたと思うんです。石山さんの同時代の方で、自分の青春を巻き込んだ物語をつくっていくっていうようなつくり方をされていて、先ほどの集合住宅ではもう少しそれを開いていくと。その辺の変化は、いつ頃現れたんでしょうか。

長谷川:1970年代に10戸くらいの住宅をつくりましたね。私たちが学生の時にみんなが研究していたのがル・コルビュジエだったんですよね。新しい生活のスタイルを一生懸命研究していたし、その時、新しい都市の建築として住宅を考えている所があって。
 私は芸大に行ったらアアルトの研究をしようと思っていたんですよ。なぜかというと、私はコルビュジエが持っている新しい生活がどうも今までの生活と持続してない感じがして、違和感があった。そんなときに、あんまり当時の学生の間ではとりあげられることのなかったアアルトの作品集を偶然見て、アアルトはもっと地域の中でその持続した生活をイメージして住宅とか集合住宅をつくっているなって、直感的に思いました。私は藝大に行って、現代的でありながら同時に持続した生活ができるようなアアルトみたいな集合住宅をやろうと思っていたんです。それでアアルトに手紙を送ったりしていました。私は日本人でアアルトの研究をしたいと思っていますと。結局、菊竹事務所に入っちゃたので芸大でアアルトの研究をする夢はお預けになったんですよね。そうしたら、菊竹事務所に入ってすぐ、外国の家具をリサーチするっていう仕事があって、新人なのに1か月休暇を頂いてヨーロッパの家具のリサーチをする傍ら、アアルト先生に会いに行ったんですよ。そのとき、アアルトと一緒に昼食を食べることができたんです。アトリエを見せてもらったりしながら。北欧の豊かな森林の中にあって、いろいろに煉瓦を積み上げた壁が真っ白に塗ってあったり。そういう建築のあり方を見て、アアルトに会いに行く途中で見たサヴォア邸の展示品みたいなあり方とは全く違うと思って帰ってきました。開かれた空間って、ただガラス張りで見えるとかそういう事とは違うんじゃないかと思うんですね。地域環境との連続性とか、素材の使い方とか、目に見えない生活のなかでの振る舞い方とか、そういうものがちゃんと持続されているっていう事も建築を開いていくときには大事なんじゃないかなと。
 私が同級生ぐらいの人たちの住宅をつくりはじめた70年代には、日本では、プライバシーっていう問題がモダニズムの1つの生活様式として出てくる訳です。普通の生活の部分は閉じて欲しいっていう感じが、なんとなく日本人の生活の主流になってきて、そういうプライバシーを重視する社会の中で住宅を作るとき、住宅がどうしても閉じた空間になる。当時からそれに凄く疑問を持っていました。私は民家を見歩いて、土間とか馬小屋とか外での活動も内包している空間の豊かさに惹かれていました。地域に密着してある民家では、外の生活空間っていうのも大事なんですね。篠原研にいる時に、最初に私に与えられたのは箱根の別荘で、敷地は広い原っぱ、横にはせせらぎが流れるという場所でした。私は、具体的生活の場を閉じた「実の領域」、軽いフレームと屋根で原っぱを包み込んだ半屋外的な場を開かれた「虚の領域」と名付け、二つの領域を横並びに配置しました。民家空間から出発した「虚の領域」は、はらっぱ的空間で、その後の設計でも「外のリビング」、「外室」、「空中庭園」などと名付けて、外気の中で生活する領域を住宅建築の中に導入するようにしてきました。「外室」というのは屋根はかかっていて雨は当たらないけど、外の空気の所。例えば徳丸先生が朝ごはんを食べるテラス、練馬の住宅の月見台や桑原の住宅のパンチングメタルのシェードをかけたテラスなどです。外気が住宅や生活の中に入ってくる、あるいは生活が外気の中にそのまま出ていく、そういう事が開かれた建築をつくるためには大事なんだと思うんですね。集合した時には積極的に人が付き合える、コミュニケーションできる場所をつくりたいので、ああいうブリッジとかガラス張りの集会所とかをつくってきたんです。
 今若い人たちがトイレまで見えちゃうようなガラス張りの建築作るじゃない。それを開かれた建築とか内外の均質性とかいうのですが、あれは開かれているんですか?今若い人達がアートだと言ってつくっている住宅は、篠原一男が住宅は芸術だと言った時の芸術と全く違っていますね。外国に行くと凄く質問されるんです。本当に日本人はそんなプライバシーもない不思議な家に住めるのかとか、ガラス張りの家ってカーテンして住むらしいけどっていう質問をすぐ受けます。まあ、ガラス張りっていうのは、視覚的には開かれている、開かれたイメージを提供できますが、見えるっていう事だけで開かれた空間はできないのではないかと思いますね。アートとしての住宅のつくり方には、多少疑問を持っています。あれは開かれた建築ですか?

芦澤:どうなんですかね。

長谷川:みんなやっているじゃないですか、アパートでやっている人いたじゃない。

平沼:アパートでやっている人いますね。

長谷川:生活のリアリティを感じないものはアートじゃないんじゃないかな。もっと多木浩二が書いた「生きられた家」みたいな、普通の人が生きている状態を書く、それこそアートだと思って私は見ていますけどね。そういう物を見えるようにするっていうのは、アートとして摘出できるんじゃないかなと思うんだけど、建築をガラス張りにしたらアートっていう訳にはいかないんじゃないかな。建築の中にいつも人がいるんですよ。そこがちょっと違うかなって、批判したい気分があります。

平沼:この話を聞いていたら全然前に行きたくなくなってくるので、次お願いしてもいいですか。

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