長谷川:国際会議場コンペのときは3年生だったんですよ。4年生のときにまた、菊竹さんから浅川のアパートの設計のアルバイトに来なさいって連絡をいただいて。でも、菊竹事務所の内井昭蔵さんに、早稲田か東大をディプロマ1番で出ないと取らないんだって言われて。まぁ菊竹事務所には行けないだろうと思って、芸大の大学院を受けました。そうしたら菊竹さんが突然来いって言ってくれたので、菊竹さんの所に就職しました。

芦澤:ははは。

平沼:いやいや。菊竹事務所には何年ぐらいおられたんですか?

長谷川:5年いました。体力的に持たなかったですね、5年くらいしか。土日もなく、世の中の流れも分からないくらい働いていました。

平沼:その頃はどんなスタッフの方がおられましたか?

芦澤:伊東さんとか。

長谷川:同期に仙田さん、そして伊東さんが1年遅れて入って来て、その後、富永さんが入ってきたりしました。なかなかの人たちが次々やってきて先輩も色んな方がいましたね。10人くらいしかいない事務所にしては物凄く仕事をしてましたからね。大型建築を次々と手がけていましたから。

平沼:ちょっとお聞きしたことがあります。

芦澤:大体事務所に泊まり込みですか?

長谷川:私は泊まりませんでしたが、みんなは泊まり込んでいたと思いますよ。朝早くきちっと出て、夜最終便で帰っていました。世の中ではボーリングとかディスコとか色々な流行りがあったのに全然知らないまま、テレビも見ないし。そんな生活を5年以上しているのがちょっと心配になって辞めちゃいましたけどね。世の中が分からなくなってしまうぐらい働きました。

芦澤:その時はどんなプロジェクトを担当されていましたか?

長谷川:私は4年の時からアルバイトに行っていたので菊竹さんと親しくなっていて、菊竹さんの部屋の後ろに私の部屋があったんです。菊竹さんと1対1で打ち合わせをして、ファーストイメージを描く。スケッチを描く仕事をはじめてやらされたのが「都城」でしたね。とんでもない絵を描いてしまったんですけど。雑誌発表は「蝸牛」になっていますが、アレは実は乳母車の日除けの幌だったんです。関東学院には松井源吾先生が教えにいらしていて、松井先生の授業が面白くて、私は3年、4年は構造コースでした。それで、菊竹事務所に入ってからも、松井先生は「長谷川、地盤が悪いから構造も設備も1点に集中するようなものを考えないといけないんだ」と親しげにアドヴァイスしてくれました。乳母車の幌みたいなスケッチを描いたら、菊竹さんが嬉しがってそのスケッチを松井先生のところに持って行って、じゃあそれで行こう!みたいな感じで進めていったんです。そういう、一つずつ論理を積み上げてというよりは、敷地の状況とか構造のあり方とかから直観的に建築を掴み出すような進め方でした。佐渡では「橋をかけるように土木のような建築をつくろう」とか。…萩の時はちょっと酷かったですね。先輩の遠藤さんたちはコンクリートで萩市民館の実施設計を終えて、見積もりも出て、市長さんもOKしていた段階でしたが、菊竹さんは何か嫌だったんでしょうね?全部をひっくり返すような案を描かされました。あともう1つ菊竹さんに言われてやっていた事は、東光園の天皇陛下のベッドとイージーチェアの設計。最初は家具っていうのに抵抗があって、凄く嫌な顔をしていたところをアルバイトに来ていた伊東さんが見ていて、「菊竹さんにあんな態度をとっちゃいけない!」って怒られちゃったんですよ。みんなだってやりたい事をやれないのにって言われて。(笑)

平沼:今の言い方そっくりでした。(笑)

芦澤:(笑)

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