2 1 7[ nie - ichi - nana ] 第31回

日 時 : 2015年 5月 15日 PM 7:00〜
会 場 : 大阪・梅田 グランフロント大阪 ナレッジシアター

ゲスト : 長谷川逸子
対 談 : 芦澤竜一 平沼孝啓

平沼:長谷川先生、本日はどうぞよろしくお願いいたします。
毎回の恒例なのですが、簡単に自己紹介をお願いしてもよろしいでしょうか。

長谷川:はい。こんばんは、長谷川逸子です。こちらこそ、今日はどうぞよろしくお願いいたします。 子どもの頃の話しをするとね、戦後まもなくのことなのに、怒られちゃうほど豊かな場所で育ったんです。あまり戦争のことを感じないような場所で育ちました。そして母が日本画を描いていたので、いつも花を描きに行くのにくっついていく。生まれ育った静岡にはとてもたくさんの花畑があって、きれいな場所を見させて貰いながら幼少期を過ごしました。と、そんな話をすると伊東豊雄が怒るんですね。(笑)

平沼・芦澤:アハハ。(笑) そうだったのですか。

長谷川:そう。「みんな大変な時代を生きていたんだ!give me chocolate!って言った事があるか?」って言われて、そんな外国人は私の田舎には来ませんでしたって返事をします。小学校までは本当に素朴な田舎で育って、家の庭を壊してトマトとかトウモロコシを作るお手伝いとかした事はありますけども、あまり戦争の感じは無く子供の頃大変だった思い出が残っていません。中学、高校は女学校に行って、隣のお兄さんと同じ京大の建築学科に行こうとして必死に勉強していたのに、女学校の先生は「女性は工学部という所には行ってはいけない!」、絶対に行かせないと言って、それで結局受験に行けませんでした。

平沼:そうでしたか。

長谷川:そう。受験もできなかったし、子どもの頃から家で母と一緒に油絵をやっていたので、自分も絵をやろうと思っていたんですけど、母に突然、絵を描くよりもっと社会的な仕事をした方が良いんじゃないの?と言われ、どこでもいいから学校に行こうと思って、受験の時期が終わりかけていたんですが、東京にいる姉に東京の工学部でまだどこか行けるとこはないか?と電話をしました。私の趣味はヨットでしたから、姉はヨットの女性部がある学校を探してくれて、それが関東学院でした。実は私はヨットの国体選手でした。強かったですよ。1番とか2番で。そんなわけでもともと行きたかった学校じゃないしっていう感じもあって、学生時代は油絵描いたりヨット乗ったり、好きな事をいろいろしていましたね。

平沼:大学行かれた時どんな学生でしたか?

長谷川:学校にはあんまり行きませんでした。神奈川のヨットハーバーに真っ直ぐ行って。大学2年の終わりに最初の住宅の課題が出て、ヨットの設計をしていたのでバルサで模型を作ったんですね。みんなその頃まだ、ボール紙とかで模型をつくっていたと思いますが、私はバルサで作ったので目立ったと思います。横浜駅で男の子に「届けて」って渡して提出してもらったような模型だったんですが。当時、早稲田大学で黒川さんや磯崎さんが「学生会議」の模型展をやっていました。そこで私の模型が1番になったよと先生に呼び出されたんです。それと同時に、模型展の審査員だった菊竹さんから電話があって、バルサで京都国際会議場コンペの模型をつくってくれないか?って言われて、えぇ!って。菊竹さんてその当時大変な人でしたから。それで3年生の春休みに国際会議場のエスキース模型をつくりにはじめて菊竹事務所に行ったんです。

平沼:アハハ。(笑)

長谷川:監禁されるのごとくでした。学校行くとコンペ案が漏れるから休むようにと。

芦澤:はは。

長谷川:コンペ案を発表した時、菊竹さんはちゃんと学生だった私の名前も出してくれましたので、伊東や安藤さんと同級生なのに私は2つくらい年上に見られたままいるんですよね。

平沼:なるほど!

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