倉方:じゃぁ次行きましょうか。

芦澤:これが今やってるプロジェクトで秋ぐらいに竣工するんですけど、滋賀の琵琶湖の畔で、ヤンマーがヨットマリーナを持っていて、そこにホテルをつくる計画なんですけど…

倉方:何でヤンマー?

芦澤:ヤンマーはディーゼルエンジンをつくってて、それでボートとかヨットのエンジンをつくっているんですよね。元々、彼らは滋賀の出身で、いっぱい小さなヤンマー関連の工場が琵琶湖の周りにあります。、地域の町工場に仕事をつくっています

倉方:あぁ。

芦澤:うん、ただ、ヨットマリーナは非常に前時代的な開発の仕方をしていて。琵琶湖って水のエリアから山のエリアまで、エコトーンという連続した豊かな自然生態ががあるんですね。それをコンクリート護岸で潰しているのが現状です。

倉方:うーん、なるほど。

芦澤:そこで今回単ホテルをつくるだけじゃなくて、その琵琶湖の湖岸のランドスケープをもう一度取り戻そうということで考えています。
最近興味あるのが、土や先程の竹などの、自然素材です。均質なものではないので、非常に難しいんですけど。この写真は、大阪のマンションのインテリアの改修をやっていて、右側にいらっしゃる方が琵琶湖の現場の傍に住んでらっしゃる左官屋さんなんです。すごく面白い方で、その方に滋賀の土を使う工事をやってもらおうと思ったので、一回大阪のマンションの一室で色々実験しているところです。内装、床、壁、天井を全部土でやろうとしてる。写真のようにパターンが入ってるのは、空手チョップで手跡をつける。(笑)色々左官屋さんと話をしていて、縄文的な空間を造ろうという話に行きつきました。ホテルでも土をいっぱい使おうということで考えています。大分出来てきてきているんですけど、今日も現場行ってきました。客室の間仕切り壁が一方はRCなんですけど、反対側の壁を全部、滋賀の土をつき固めた版築という技法でやろうとしてます。
ヤンマーの社長がすごい音楽好きな人で、ホテルなので挙式をあげる空間もつくる必要があり、音を体感でき、挙式もできる音楽堂をつくってます。木造でつくっていますけど、空間の中に風を通して楽器として機能させようというコンセプトでやってます。エオリアンハープというハープがあって、スライドの真ん中の上の方に写っているのがハープ、左はギリシャ神話の絵かな。風の神アポロンが風を吹くと音が奏でられるという神話の世界を建築としてやれないかと思考しています。空間内をいかに風が流れるかというシミュレーションを芸工大の小玉研究室に協力して頂き、形態を決めました。空間の上の方に弦を張って、それを構造的にも効かせようとしてるんですけど、弦に風が通るとカルマン渦が発生し、きっと音が鳴るだろうと思っています。絶対ではないですってクライアントに言ってるんですけど(笑)
これは今、マレーシアでやっているプロジェクトです。工場なんですけど、このクライアントは大阪の会社で、建築に非常に夢を持たれてる経営者がクライアントですこちらも大分できてきまして、周りがジャングルなので、ジャングルと連続する丘を作ってその下に建築空間をつくろうと考えました。高層棟が右側の方にありますけどそちられオフィスで、カーテンウォールのガラスの周囲も全部緑のカーテンで遮熱、遮光しようと考えてます。マレーシアはイスラム圏なので、イスラムのアラベスク紋様を建築の構造体やいろんなところで使おうとしてます。全ての柱には、全部雨水用の縦樋が仕込んであって屋上の水を全部地下に貯めて、それを更に屋上へと循環するようにしてるんです。また工場空間が暗くならないように、自然光によるトップライトを設けて、反射板を作って、空間内のベース照明をとっています。割と好き放題やらせてもらってるプロジェクトですね。

倉方:じゃあ最後の質問です。建築家とはどんな職業ですか。

芦澤:難しいんですよね、やっぱりこの質問。建築家は当然、建築物を作ることに携わるんですけど、その時代性を読みながら、建築というものを通して社会の見方を自分なりに定義して、さっき平沼さんも作家っていう話をされましたけど、価値観とか考え方とか、生き方とか生活とか、そういうものを提示すべき立場にいるなあという風に考えてます。

倉方:ありがとうございました。お二人ともやっぱり凄く面白いですね。それに、建築レクチュアシリーズっていうトークイベントなので、建築家とは何か、これが最後の質問に来るっていうのもそうだし、建築家とは何か?っていうことを改めて考えたいというのが、217の全部に通底してるものかなっていうふうに私は外から見てて思っていました。今日はその建築家とはとか、あるいは今の時代の建築とは、あるいは永遠に変わらない建築とは建築家とは、かもしんないけど、建築家について考えるっていうのが一つ今日の、ポイントかなあと思ってるんですけど。
でもなんかお二方のを見てても、良い意味で、今の時代の建築家だなって思うところがあります。これは私の持論なんですけど、今、建築が作品からプロジェクトに変わってると思うんですよね。ちょっと前まで建築っていうのは作品であって、作品っていうのは何かっていうと、つまりアートになりたかったんですよ。誰か作者がいて竣工年があって、ある場所に変わらない形があるっていうことだね、オリジナルの形が。作者が必ずいて、できた年代があって、その時できた形は永遠に変えちゃいけないと。例えば中世の美術でも、昔のに上塗りされたってわかったら、上塗りをとって元に戻すとか。でもそれは近代の発想ですよね。中世の人は、上塗りして上塗りして上塗りして、良くなったらいいじゃないみたいな感じだから、近代はある意味では囲い込みというか、完全に固定化するものなんだけど。建築も近代は、ある意味ではアートになりたかったんですよね。だから近代になればなるほど建築家が特権視される。作者が誰か、竣工年がいつかというのが大事になってくる。保存という概念もそれに関連しますね。保存という概念は、それが完成したときの形が一番良いという発想。だから、最初の時の形に戻したりするわけですよね、わざと工事して。今の法隆寺だって明治初めの法隆寺の写真なんか見ると今とずいぶん違う形をしてます。途中でいろいろ付け加えたりしたものがあったからですね。だから、そのオリジナルの状態は何かを分析して、復元するために建築史家とか建築研究者というものが近代に入って養成されるわけですよね。付け加えたものの中からオリジナルが何かっていうのを特定して戻さないと近代の学問じゃないと、近代国家じゃないと。中世じゃないんだから、だんだん変わってってオリジナルわかりませんでしたみたいなのだと、日本はいつまでたっても野蛮人の国だと思われるから、文明開化して近代の学問を入れた時に、そのオリジナルなのをちゃんと継承する役割として、伊東忠太とか関野貞っていう人が建築学者として出てきたんですよね。まあ、それだけでもないのだけど、やはり社会的な立場を得たのは、そんな保存・復元担当者という役割が大きい。それは今でもね。だから、保存と近代って逆向きのベクトルにに思えるけど一緒で、保存っていうのは近代になって現れたもの。一言で言うと共に「作品主義」なわけです。しかし、建築っていうのは、本来そういうものだったのかということがあるわけです。つまり、アートだったら、移動できるし保存できるし囲い込みが簡単にしやすいわけですよね。美術館というにはその囲い込みの装置であって、その中に入れちゃえば空調も整っていて、痛まないし、竣工年が誰かとか確定すれば変わる必要ないけど、建築ってそれとは違って、動的なものなんじゃないか。動的というのは、使う人によって用途が変わってくのもそうだし、あとは外部を必ず必要とするんですよね。アートってもちろん明かりに照らされてないと見えないけど、それぐらいのものであって、アートが循環するってことはありえないじゃないですか。建築って、外の光が入るとか空気が循環するとか、いろんな流れの中でしか実は存在し得ないんだけど、でも近代になればなるほど囲い込んで、この中で空調も照明も全部成り立って、できた時の姿でいいですよと。住宅だったら、メンテナンスフリーですよとか。いろいろ言いましたが、これらの奥底には竣工の時の姿から変わんないのが一番いいという価値観があるわけですね。では、最近の建築家がやってることはそうかというと、私はそうではなくて、つまり「作品」ではなくて「プロジェクト」に近づいていると思うんですよね。プロジェクトっていうのが何かっていうと、できた時の姿から変わってくとか、あるいはそのできた時から変化していくのも含めて計画をするとか、あるいはその外界の要素ですよね。例えば間伐材だったら間伐材の流れを良くするっていう、建築を作ってそれがアート作品として素晴らしいってことだけじゃなくて、全体の間伐材を使った流れができてくようなものであれば、それはいい効果をもたらす建築であるし。芦澤さんのにしても植物が生えていったりだとか、環境の中でまわってくってことが良くしてくっていう、プロジェクトとしての建築にだんだんなってきている。
私も倉方塾というものを中之島デザインミュージアムde sign deという場所で月に1回やってるんですけど、そこで2ヶ月くらい前に垣内さんって大阪芸大を出て、建築家でやられてる方なんですけど、その方のインスタレーションが北九州であって、それが今週日曜までなんで、今日行かないと見れないわと思って、今日急遽行って。垣内さんもおられたんですけど、それが凄く面白くて、結構共通してるとこもあって。廃材みたいのを利用して、インスタレーションを作るんだけど、それが凄く良くできてて。インスタレーション自体が、その、CCAっていう北九州のアートでけっこうレムコールハースとか篠原一男とかけっこういろんな建築家も含めて、インスタレーションを今まで10何年作り続けてきたっていう。北九州って結構企業が多いんで、そういうところがお金出してくれるんですよね。だから、大阪とも共通してて、企業があるところって旦那みたいなのがいるから、そういう経済的じゃない活動がまわっていくっていうのが、僕は大阪は商都であり工業都市だから、そういうのがいいとこだと思うんだけど。それで、他のアーティストなんかが同時にインスタレーションをやっているんだけど、インスタレーションって完成してそれが何週間かで終わると全部部材を破棄するんですよね。だから、アートっていうものをすごい無駄に、完成した時の姿が一番だから、逆に言うと終っちゃったらその具材ってもう破棄するのが当たり前だと思ってるんですよね。逆にそれを使ってインスタレーションをやったりしてるんですよね。だからけっこうその、建築ってそういうサイクルの中でまわってるっていうのはあって。たとえば伊勢神宮とか、あれって20年に一回建て替えるじゃないですか。あれのすごいのは、建て替えるだけじゃなくて、前の伊勢神宮の部材とかを、他のところに転用するんですね。なにしろあれは、建てるっていう事じゃなくて、建てた後に木を育てるところから始まるから、あのために山を育てて、木を切って、建てて。建てた後は、今度はそれを他のものに転用してっていう、一連のサイクルの中で伊勢神宮っていうのはあって、だから建築ってそもそもそういうもんだと思うんですね。サイクルの中である、っていう。だから、そこの部分が、やっぱり、まあもちろんアートとしての建築、竣工時にすごいいい空間があって、永遠に変わらないような良さがあってっていうのはそれはそれで建築の価値なんだけど。なんかこう、そっちばっかり探求してきて、そっちしか建築の価値じゃないって思ってた世代がちょっと上まであって。だいたいそっちはかなりやっちゃってるから、むしろそのプロジェクトとしてみていったときに、建築ってもっともっといろんなことができるよ、みたいなところがなんかたぶんお二人にも共通しているじゃないかな、と思いました。

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