藤森:この処女作は、私の生まれた村につくったものですが、地元の人たちも全く理解しない。「なんでこんな昔のぼろ屋みたいなのをわざわざお金をかけて、役所につくってもらったんだって?」っていう感じでしたね。

平沼:うーん。

藤森:でも「まぁいいや」と思って、つくっていこうと思ったのですけどね。辛うじて評価してくれた同世代の建築家たちは、今から20年前くらいだから、当然、今ほどみんな有名じゃなかったんです。だから、ほとんどの人が良く分からなくて、そのあとね、設計の依頼が当然無いんですよ。歴史の先生ですしね。

平沼:なるほど。

藤森:それでそんな状態なのに、すごく目覚めてしまってね。しょうがないから、自分の家をつくって、そのあと友達の赤瀬川原平さんの家をつくって、設計をはじめた最初の4年間くらいはそういう感じでした。

芦澤:話が少し変わってしまうのですが、路上観察をしていた時期というのは、おいくつくらいでしたか?

藤森:設計をはじめる3年前に路上観察学会をはじめていました。路上観察学会をやっている最中に設計して、その時の路上観察の仲間が後の施主になっていった。赤瀬川さんとかね。路上観察の仲間が最初の施主。だから社会的にはほとんど広がりのない中での仕事でしたね。

芦澤:いやいや。

平沼:そんな建築史から入られた藤森さんは、建築設計という分野で、どんなことに大きな問題を感じられていますか?

藤森:そうね、意外と建築家って社会性のないものだって感じる。

芦澤:それは建築界全体を見てってことですか。

藤森:いや、全体ってことないですけど、割合半分くらいかな。
それと、僕の場合ね、友達のやっていることは絶対にできないってことがあったの。似ているようなことは。それはだって僕、批評家もやっていたから絶対笑われるわけよ。打ち放しなんかやったら、それはもう大阪の建築家が笑うに決まっているしね。それに、歴史をやっていたから、古典的なこともまたできない。

平沼:なるほど。

藤森:だから結局ね、歴史的なデザインもできないし、現代建築のデザインもできないので、どうやってやるかという、結構、現場の状況でやってきたのです。今でも設計していてね、現代建築の誰かに似たとこが出るとすぐやめてしまいます。それとあとやっぱり、歴史をやっていますから世界中の歴史的な建築を知っていて、それに似てくるとやっぱりやめます。結構、そういう普通の設計者がしない判断をしてやっている。それが個性的にもなっているんじゃないかなと思っています。

芦澤:歴史的な建物をちょっといじって藤森流にされてくっていうようなことは考えないですか?

藤森:それは嫌だね。
それはきっと一番、歴史家がやり易い安易な道で、そして国籍が感じるようなことは絶対にしないようにしてる。たとえば、歴史家としてよくわかるからといって、木を使ってもね。真壁は絶対にやらないのですよ。真壁は、日本とヨーロッパに存在していて日本の数寄屋とヨーロッパの木造ハーフティンバーってある。それで大体の真壁が尽きてしまうのです。つまり、私がやることは何もないっていう感じなんです。

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